ヴィクトリア朝のグラマースクール
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「グラマースクール」の記事における「ヴィクトリア朝のグラマースクール」の解説
19世紀、基金立学校法により結果的にグラマースクールの改革が起こった。グラマースクールは文学的、科学的なカリキュラムに従いながら、同時にしばしば古典的な科目を保った学究的志向の中等学校として再発見された。1840年のグラマースクール法により、グラマースクールの収入を古典的な言語の教育以外に当てることが合法となったが、変更には依然として校長の同意を必要とした。とかくするうちに国内の学校はトーマス・アーノルドが行なったラグビー校の改革に則って再編成し、鉄道の普及によりマールボロ・カレッジ(英語版)(1843年)のように広範なカリキュラムを教える新たな寄宿学校ができた。大学入学を目標とする最初の女子校は、ノース・ロンドン・コレッジット・スクール(英語版)(1850年)と1858年にドロシー・ビール(英語版)が校長に任命されたチェルトナム・レディーズ・カレッジ(英語版)だった。 1868年パブリック・スクール法(英語版)により主要なパブリックスクール9校を改革したクラレンドン委員会(英語版)をモデルに、基金立グラマースクール782校を審査するためのトーントン委員会(Taunton Commission)が設けられた。委員会は学校の分布が現在の人口と一致しておらず、設備にも大いにばらつきがあり、とりわけ女子向けの設備が限られていると報告した。委員会の目的は、現在の目的に合わせてこうした基金立学校を近代的要請に沿うように改革することで、全国的な中等教育システムを作ることであった。その結果、1869年基金立学校法(英語版)が制定され、個々の学校の基金に関し広範な権限を持つ基金立学校委員会を創設した。委員会は「ノーサンバーランドの男子校をコーンウォールの女子校に変更できる」と言われた。イングランドとウェールズ全域で少年に古典的な授業を無償で提供する基金立学校は、有償で少年や少女に広範なカリキュラムを教える学校として(一部は競争的な奨学金付きで)作り変えられた。 ヴィクトリア朝時代はセルフヘルプの重要性が強調され、子供たちにきちんとした教育を受けさせようとする両親らは、古典的なコアカリキュラムを残しつつも現代的なカリキュラムのある新たな学校の創設を組織した。こうした新たな学校は、偉大なパブリックスクールのカリキュラムや精神、野心をまねる傾向があり、歴史的な理由から「グラマースクール」の名をつけることもしばしばあった。古い男子グラマースクールのある町に創立された女子グラマースクールは「ハイスクール」と命名されることもよくあった。 1907年教育法(英語版)により、助成金を受ける全ての中等学校は、公立小学校出身の生徒のために返還義務のない奨学金の最低25%を提供することを義務付けられた。このようにしてグラマースクールは1944年までイングランドとウェールズの様々な教育制度の一翼を担うことになった。
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