ヴァイマルへとは? わかりやすく解説

ヴァイマルへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 02:33 UTC 版)

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」の記事における「ヴァイマルへ」の解説

1775年11月ゲーテカール・アウグスト公からの招請を受け、その後永住することになるヴァイマル移った当初ゲーテ自身短い滞在のつもりでおり、招き受けた際もなかなか迎えがこなかったためイタリアへ向かってしまい、その途上ハイデルベルクデルフ宅でヴァイマルからの連絡を受けあわてて引き返したほどであった当時ヴァイマル公国面積1900平方キロメートル人口6000程度小国であり、農民職人支えられ貧しい国であった。本来アウグスト公の住居となるはずの城も火災焼け落ちたまま廃墟となっており、ゲーテ住まい公爵拝領した質素な園亭であったアウグスト公は当時まだ18歳で、父エルンスト・アウグスト2世17年前20歳若さ死亡し代り皇太后アンナ・アマーリア(アウグスト公の母親)が政務取り仕切っていた。彼女は国の復興に力を注ぎ詩人ヴィーラント息子アウグスト教育係として招いたほか多く優れた人材集めていた。 26歳ゲーテアウグスト公から兄のように慕われ、彼と共に狩猟乗馬ダンス演劇楽しんだ王妃からの信頼厚く、また先輩詩人ヴィーラント始め多く理解者囲まれ次第にこの地に留まりたいという思い強くていった到着から半年後、ゲーテ公国閣僚となりこの地に留まることになったが、ゲーテをこの地にもっとも強く引き付けたのはシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人との恋愛であったゲーテシュタイン夫人との出会いは、ゲーテヴァイマール到着した数日後のことであった。彼女はヴァイマール主馬頭の妻で、この時ゲーテよりも7つ上の33歳であり、すでに7人の子供がいた。しかしゲーテは彼女の調和的な美しさ惹かれ、彼女の元に熱心に通い、また多くの手紙を彼女に向けて書いた。すでに夫との仲が冷め切っていた夫人青年ゲーテ暖かく迎え入れ、この恋愛ゲーテイタリア旅行行なうまで12年にも及んだ。この恋愛によってゲーテの無数の詩が生まれただけでなく、後年の『イフィゲーニエ』や『タッソー』など文学作品も彼女からの人格的な影響受けており、ゲーテ文学シュトルム・ウント・ドラングから古典主義へと向かっていく契機となったシュタイン夫人との恋愛続いていた10年同時にゲーテ政務没頭した10年でもあり、この間文学的に空白期間である。1780年31歳の時、フランクフルトロッジにてフリーメイソン入会4年後に書かれた「秘密」という叙事詩にはフリーメイソンモデルとした秘密結社登場させている。ゲーテ着実にヴァイマル公国政務果たし1782年には神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世により貴族に列せられヴァイマル公国宰相となった以後、姓に貴族を表す「フォン」が付き、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」と呼ばれるうになる)。政治家としてのゲーテヴァイマル公国産業の振興を図るとともにイェーナ大学人事担当してシラーフィヒテシェリング当時知識人多数招聘し、ヴァイマル劇場総監督としてシェイクスピアカルデロンらの戯曲上演し文教政策に力を注いだ

※この「ヴァイマルへ」の解説は、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」の解説の一部です。
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