シラーとの交流とは? わかりやすく解説

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シラーとの交流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 02:33 UTC 版)

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」の記事における「シラーとの交流」の解説

ゲーテフリードリヒ・シラーは、共にドイツ文学史におけるシュトゥルム・ウント・ドラングヴァイマル古典主義(「ドイツ古典主義」、「擬古典主義」などとも)を代表する作家として並び称されるが、出合った当初お互い誤解もあって打ち解けた仲とはならなかった。ゲーテ1788年シラーイェーナ大学歴史学教授として招聘しているが、その後1791年シラーが『群盗』を発表すると、すでに古典調和的な美へと向かっていたゲーテは『群盗』の奔放さ反感持ち10歳年下シラーに対して意識的に距離を置くようにしていた。シラーのほうもゲーテの冷たい態度感じ一時ゲーテ対し反感持っていた。 だがその後1794年イェーナにおける植物学会で言葉を交わすゲーテシラー自身考えに近づいていることを感じ以後急速に距離を縮めていった。この年6月13日にはシラー主宰する『ホーレン』への寄稿行っており、1796年には詩集『クセーニエン』(Xenien)を共同制作し、2行連詩形式エピグラム)によって当時文壇辛辣に批評した。こうして互いに友情深めるに連れ2人ドイツ文学における古典主義時代確立していくことになった。 この当時自然科学研究のめりこんでいたゲーテ励まし、「あなたの本領は詩の世界にあるのです」といってその興味詩作へと向けさせたのもシラーであったゲーテシラーからの叱咤激励を受けつつ、1796年教養小説傑作ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を、翌年にはドイツ庶民層広く読まれることになる叙事詩ヘルマンとドロテーア』を完成させた。1799年にはシラーヴァイマルへ移住し二人交流はますます深まる。また『ファウスト断片』を発表して以来長らく手をつけずにいた『ファウスト』の執筆うながしたのもまたシラーである。ゲーテは後に「シラー出会ってなかったら、『ファウスト』は完成していなかっただろう」と語っている。 1805年5月9日シラー肺病のため若くして死去するシラー死の直前までゲーテシラーに対して文学的助言求め手紙送付している。周囲人々シラーの死が与え精神的衝撃憂慮しゲーテになかなかシラー訃報伝えられなかったという。実際にシラーの死を知ったゲーテは「自分存在半分失った」と嘆き病に伏せっている。一般にドイツ文学史における古典主義時代は、ゲーテイタリア旅行1786年)に始まり、このシラーの死を持って終わるとされている。なお1794年からシラー没するまでの約11年間で交わされ書簡1000余りである訳書下記)。

※この「シラーとの交流」の解説は、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」の解説の一部です。
「シラーとの交流」を含む「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」の記事については、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」の概要を参照ください。

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