ワールドスポーツカー (WSC)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 06:38 UTC 版)
「IMSA GT選手権」の記事における「ワールドスポーツカー (WSC)」の解説
コストの上昇とファクトリーチームがシリーズから離れ、エントリーの減少と利益が減少し、IMSAは1993年に新しいプロトタイプカテゴリーである、ワールドスポーツカー(WSC)を導入した。WSCは、翌年、GTPとGTPライトのクローズドボディーに取って代わった。WSC車はオープントップで、生産車のエンジンを備えた、フラットボトムのスポーツプロトタイプだった。生産車エンジンのレーシングバージョンのGTPマシンとは対照的だった。 1993年、WSC車は、マイアミグランプリでデビューした。しかしリタイアに終わった。セブリング12時間レースを欠場した後、このカテゴリーは残りのシーズンは4台未満の車による非選手権ラウンドに出場することとなった。 1994年にタイトルスポンサーはキャメルからエクソンに置き換えられた。WSCが最上位カテゴリーとして引き継ぐことになってはいたものの、その信頼性が開幕戦のデイトナ24時間レースで試されることになった。8台のWSC車が競う中、2台がフロントロウからスタートしたにもかかわらず、WSC車はGTの陰に隠れ、最高位は9位に終わり、他に2台が完走したに過ぎなかった。 WSCカーは第2戦セブリングで初の表彰台を獲得し、デイトナで優勝したGTSクラスの日産・300ZXに次ぐ2位と3位を獲得した。このため、GTSカテゴリにおいて、GTP用エンジンの使用を禁止するという規則変更が行われた。ロードアトランタ戦で新型、フェラーリ・333SPがデビューし、デビューレースに勝利した。その後、毎ラウンドで安定して表彰台を獲得したが、途中参戦だった為、オールズモビルがフェラーリを4ポイント上回ってマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。 1995年、フェラーリの新しいライバルに、ライリーアンドスコット・MkIIIに登場した。あえて時代遅れに感じるパイプスペースフレームシャシーとしたのは、アメリカンレース界ではポピュラーなフレームだった為で、価格の安さとメンテナンス性、純アメリカ製WSC規定初マシンであること、そして何よりその速さで一気に最大勢力となった。デビュー戦のデイトナ24時間レースでは、11周目にエンジントラブルでリタイアした。フェラーリは、セブリング12時間レースで総合優勝し、ドライバー、メーカー両タイトルを獲得した。フェラーリ333SPとライリー&スコット(オールズモビル/フォード)は、1995年から1998年終わりのIMSAの終焉まで、シリーズの主要なマシンだった。 1992年、長年のカテゴリーであるアメリカンチャレンジがGT選手権に加わった。それはGTOカテゴリーとなり、以前のGTOカテゴリーがGTS(Grand Touring Supreme)に改名された。日産・300ZXが1990年から参戦。ドライバーのスティーブ・ミレンは1992年と1994年、ドライバーズとマニュファクチャラーの両クラスタイトルを獲得。また1994年はデイトナ24時間レース、セブリング12時間レースで優勝、ル・マン24時間レースでも総合5位・クラス1位を獲得。その為IMSAは許容馬力を減らしてGTS-1クラスを平準化しようと、VGツインターボエンジンを1994年までで使用不可にした。1995年からはプレジデントに搭載していたV8エンジンを搭載し、その年のセブリング12時間でクラス優勝した。 1995年、ヨーロッパのBPRグローバルGTシリーズに近づくために、GTカテゴリーは変更された。GTSはGTS-1になり、GTUはGTS-2になった。 1997年には、別のカテゴリが追加され、GTS-2がGTS-3クラスになり、新しいGTS-2カテゴリは、既存のGT2マシンを参戦可能にするために導入された。 1996年、チャールズ・スレーターは組織をロベルト・ミュラー(リーボックの元CEO)とウォール街の金融業者でインディカーのチームオーナーで、スカンディアWSCチームのオーナードライバーでもあったアンディ・エバンスに売却した。エバンスとKurtisEideのマーケティング担当副社長は、IMSAからプロフェッショナルスポーツカーレース(PSCR)に名称を変更した。
※この「ワールドスポーツカー (WSC)」の解説は、「IMSA GT選手権」の解説の一部です。
「ワールドスポーツカー (WSC)」を含む「IMSA GT選手権」の記事については、「IMSA GT選手権」の概要を参照ください。
- ワールドスポーツカーのページへのリンク