ロダンとの出会いとは? わかりやすく解説

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ロダンとの出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 18:00 UTC 版)

ライナー・マリア・リルケ」の記事における「ロダンとの出会い」の解説

ロシア旅行先立つ1898年リルケイタリア旅行行なったが、このときフィレンツェ青年画家ハインリヒ・フォーゲラーde:Heinrich Vogeler)と知り合い親交結んだ。フォーゲラーは北ドイツ僻村ヴォルプスヴェーデ住んでおり、リルケ1900年8月彼の招き受けてこの地に滞在し、フォーゲラーや画家オットー・モーダーゾーン女性画家パウラ・ベッカー(のちにモーダーゾーンと結婚)など若い芸術家交流持った1901年4月リルケは彼らのうちの一人であった女性彫刻家クララ・ヴェストホフ結婚しヴォルプスヴェーデ隣村であるヴェストヴェーデに藁葺き農家構えた1901年12月には一人娘であるルート生まれるが、しかし間もなく父からの援助断ち切られることになり生活難リルケ襲ったクララ弟子をとって彫刻教授始めリルケ知人仕事斡旋頼み画家評論ヴォルプスヴェーデ』と『ロダン論』執筆仕事得た。やがてヴェスターヴェーデでの生活は解散余儀なくされ、1902年8月リルケは『ロダン論』執筆のためパリ渡り9月初めオーギュスト・ロダン会った。また妻クララも娘を自分実家預けてパリ渡りロダン師事したが、しかし貧しさのため夫妻同居することができず、それぞれ別々に仕事しながら日曜にだけ会うという生活であった夫妻安定した結婚生活を送ることができたのは新婚当時1年数ヶ月過ぎず、これ以後リルケヨーロッパ各地転々としたことから一家離散態となった。 リルケ図書館通いをして『ロダン論』の執筆進めながら親しくロダンアトリエ通い彼の孤独な生活と芸術観に深い影響受けた。ことにロダン対象への肉迫職人的な手仕事とは、リルケ浅薄な叙情捨てさせ、「事物詩」を始めとする、対象言葉によって内側から形作ろうとする作風に向かわせた。またリルケ直面したパリ現実と深い孤独も、その詩風芸術人生対す態度転換する大きな契機となった。その末に辿りついた成果1907年の『新詩集』である。またこの転換端的に示すものとして、「どんなに恐ろしい現実であっても、僕はその現実のためにどんな夢をも捨てて悔いないだろう」というリルケ言葉残っている。リルケ一時ロダン私設秘書になり各地ロダンについての講演旅行なども行なっており、その後誤解がもとで不和となったものの、リルケロダン対す尊敬終生変わることがなかった。 以降リルケポール・セザンヌシャルル・ボードレールなどに傾倒しながら自身芸術深めていき、1910年1月末に、パリでの自身の生活を題材にして6年歳月をかけた小説マルテの手記』を完成させた。「この仕事終わった死んでもいい」と語るほどこの小説精力注いでいたリルケ一種虚脱状態に陥り、完成後しばらくは妻子の住むベルリン過ごした

※この「ロダンとの出会い」の解説は、「ライナー・マリア・リルケ」の解説の一部です。
「ロダンとの出会い」を含む「ライナー・マリア・リルケ」の記事については、「ライナー・マリア・リルケ」の概要を参照ください。

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