ロゼッタ・ストーン読解
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「ロゼッタ・ストーン」の記事における「ロゼッタ・ストーン読解」の解説
詳細は「古代エジプト文字の解読」を参照 ローマ帝国が凋落してからロゼッタ・ストーンが発見されその解読が徐々に進んでいくまで、古代エジプトの言葉と文字についての研究は皆無だった。ヒエログリフは時代が下るごとに聖職者などの一部階級のみが用いるようになり、4世紀ごろにはエジプト人でもヒエログリフが読める人間はほとんどいなかった。ローマ帝国のテオドシウス1世が非キリスト教系の寺院をすべて閉鎖させた後にはヒエログリフは不朽の存在たることをやめていた。碑文として知られる最後のものは、フィラエで発見された「エスメト-アフノムのグラフィッティ」として知られるもので、年代的には396年8月24日にあたる。 ヒエログリフはその絵画的な特徴をよく保っており、ギリシアやローマのアルファベットと鮮やかな対比があることを古代の著述家たちも強調している。たとえば5世紀には、僧侶ホラポロが「ヒエログリュピカ 」を著し、およそ200ほどの「グリフ」に注釈をほどこしている。それがいまだ多くの誤解をまねきながら権威的な読み物になっていることを考えると、本書だけでなくそれ以外の著作もエジプトの古文書を理解するうえで長い間障害になっていたといえる。9世紀から10世紀にかけて、イスラム国家となったエジプトではアラブ人の歴史家たちがヒエログリフを解読しようと試みた。イブン・ワッシーヤたちがはじめてこの古代の文字を研究し、当時のコプト人司祭がもちいていた最新のコプト語と関連づける試みをおこなった。ヨーロッパでも研究は続いたが成果は実らなかった。代表的な研究者は16世紀のヨハンネス・ゴロピウス・ベカヌスや17世紀のアタナシウス・キルヒャー、18世紀のゲオルグ・ツォエガである。そしてロゼッタ・ストーンの解読はさながら競争のような熱狂を生み出し、言語学者や東洋学者どころかその素養のない人間までもがヒエログリフに挑みはじめていた。事実トマス・ヤングもまた本職は物理学であり、言語に関してはまさにアマチュアだった。しかし1799年に発見されたロゼッタ・ストーンに決定的に欠けていた情報が、研究者たちの継統をへて次第に明らかになり、ジャン=フランソワ・シャンポリオンがこの謎めいた文字の本質をとらえるための準備が少しずつ整っていった。
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