レーベルの存続とその哲学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/20 08:04 UTC 版)
「サラヴァ」の記事における「レーベルの存続とその哲学」の解説
サラヴァレコードの最初のアーチストはブリジット・フォンテーヌとジャック・イジュランであった。 彼らのとらわれない芸術をかねてから買っていたバルーは映画の成功で手にした金で彼らに一枚ずつアルバムを作りたかった。それだけで終わるべきストーリーだったのだが、2枚のアルバムの快挙を知ったアバンギャルドな連中たちがわれもわれもとサラヴァに押し寄せてきた。 その中には後にヒットメーカーになった、ダヴィッド・マクニールや、ピエール・アケンデンゲ、ビリンバウ奏者のナナ・ヴァスコンセロスなど才能にあふれたアーチストたちがいたため、サラヴァレコードは大忙しとなった。 中には衝撃的なアルバム、アート・アンサンブル・オブ・シカゴとブリジット・フォンテーヌの「ラジオのように」でヒットもあったが、このころから「サラヴァの夕べ(Soirees Saravah)」という野外コンサートをパリのあちこちで開催、無秩序な運営で経済状況が悪化。 さらに追い打ちをかけるようにサラヴァがレコーディングを開始して10年目の1976年、当時の経理担当が資金を持ち逃げしたことが発覚、サラヴァの経営は大きな危機に陥った。 その結果、サラヴァのレコーディング・スタジオとサラヴァブチックは封鎖されたが、サラヴァの主宰者であるピエール・バルーは「散るならば派手に散ろう」とばかり、サラヴァレコードの所属アーチストすべてを引き連れてフランス一周の無料コンサートツアーに出かけ、そのときのロードムービーが一本の映画となる。 また金銭的困難も省みず「ファミリーアルバム」35m、1時間50分の映画を製作、世界各地のフェスティバルで取り上げられる。 すでに破産を悟っていた彼は過去の栄光を形に残そうと飛び切り贅沢なコンピレーション・アルバム「サラヴァの10年 (10 ans de Saravah)」を製作する(ちなみに彼はこのコンピレーション・アルバムのライナー・ノーツに「人生まだまだ先は長いが、私にとってサラヴァは、これまで生きてきた中で最も美しい冒険だった」と書いている)。 経営難を10年かかって乗り越えたサラヴァはインディーズ・レーベルとして再独立、一切他の資本協力を受けることなく独自の哲学を持って異色の存在感を持つことになる。 印税や版権収入は新しい才能を発掘するためにすべて使われ、優れたアルバムができることにより20年30年間一定の収入を得る、というスロー・ビジネスをいち早く考えたのがサラヴァである。(事実、サラヴァ・レコードのスローガンは「スロー・ビズの王様(Les rois du slow-bizz)」である。) リリース当時、ブリジット・フォンテーヌやバルーのアルバムは個性が強く、マーケットに一致しないため、大きな数は売れないが、口コミでファンが広がりワールドワイドで絶えず一定数売れている。 その上優れたアルバムや楽曲は文化財としてのちの世代に伝えることによって、会社や個人の富を超えて社会の富となってゆく。 これは文化産業として多くのインディーズ・レーベルのお手本として見られている。
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