ルーズベルト大統領と外交交渉・開戦前
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「浅野良三」の記事における「ルーズベルト大統領と外交交渉・開戦前」の解説
ハーバード大学ではハル・ルーズベルト(Hall Roosevelt)と同期だったが、この人物はフランクリン・ルーズベルトの妻エレノア・ルーズベルトの弟だったので、1911年(明治44年)に浅野良三はハルと共にカンポベロ島にある別荘に招かれたことがあった。1931年(昭和6年)9月に満州事変が勃発すると日米関係はどんどん悪化していったが、そのような時期に日本政府は非公式な外交ルートで日米関係の悪化を食い止めようとしていた。1932年(昭和7年)11月に浅野良三は、フランクリン・ルーズベルトに大統領就任祝いの手紙を送って、心のこもった返礼の手紙を受け取った。1933年(昭和8年)の夏にルーズベルト大統領(ハーバード卒)は、浅野良三の提案に従って、良三の同僚小松隆(ハーバード卒)と話し合った、そして、浅野良三がワシントンDCを訪問する際に、ホワイトハウスに来るように招いた。1934年(昭和9年)1月に浅野良三がルーズベルトに手紙を出して松方乙彦(ハーバード卒)と会見するように求めたので、2月18日と20日にルーズベルトは松方乙彦と約一時間にわたって話し合った。その時に松方はタイプした長い覚書を持参し、この内容は個人的な見解だが日本政府の多くの人の意見を反映したものだと語った。その覚書の内容は、5・15事件や満州事変は若い将校が起こした悲しむべき事件だが、今や安定した内閣が成立して日本は正常に戻りつつあり、軍部は政府から権力を奪い取るつもりはないし、日本は満州を併合するつもりもない、そして、米国は中国びいきだが、日本と中国を公平に扱えば緊張状態は解消されるだろうし、米国艦隊が太平洋から退去すれば日本人はとても喜ぶだろうというものだった。ルーズベルトはこの覚書を国務長官コーデル・ハルと国務省のスタンリー・クール・ホーンベックに渡して意見を求めた。ホーンベックは、非公式ルート外交の悪しき先例になるので松方に二度と合わないように進言し、ルーズベルトはそれに従った。国務省は浅野良三との会談にも反対したが、ルーズベルトはそれには従わなかったので、ジュネーブでの国際労働会議の帰途、1934年(昭和9年)5月に浅野良三はホワイトハウスを訪問して約一時間ルーズベルトと会談した。その内容は不明だが、浅野良三は後に「我が国民と我が国に対する親切なご意見」に感謝する手紙をルーズベルトに送った。1935年(昭和10年)には、浅野良三は手紙で、岡田忠彦と竹下提督に会うようルーズベルトに求めたが実現しなかった。 1935年(昭和10年)、フォード自動車が工場建設のために、浅野財閥の鶴見埋立地11万坪を買収しようとした。陸軍はこれを察知すると、浅野良三を呼び出して売買中止を勧告し、商工省も土地売買に反対した。その時たまたま陸軍大臣が満州に赴いたので、帰国までは契約しないように、陸軍大臣と商工大臣が正式な通達を出した。ところが、陸軍大臣が帰国すると、浅野良三は陸軍や商工省の勧告に逆らって無断で土地を売却した。1939年(昭和14年)には、自給自足による国防強化のためには、南洋から輸入した鉄鉱石(富鉱)を日本本土で製鉄するよりも、満州産の鉄鉱石を満州で製鉄すべきだという意見が一部で唱えられていた。鶴見製鉄造船社長として浅野良三はそれに反対し、満州産の鉄鉱石(貧鉱)の利用は技術的困難が多い、陸路が多い満州からの輸送は船舶による南洋からの輸送よりも割高になる、とにかく鉄鋼生産量を増やすのが重要だと述べた。
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