ルージン事件(1936年)
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「ニコライ・ルージン」の記事における「ルージン事件(1936年)」の解説
1930年11月21日、アレクサンドル・ゲルファントやレフ・ポントリャーギンに加えてルージンの生徒であったレフ・シュニレルマンやラザル・リュステルニクからなるモスクワ数学会の先導的グループは、「数学者の中に活発な反革命者がいる」と糾弾した。数学者の中には指弾されたものがおり、その中にはルージンの指導教官であったドミトリ・エゴロフが含まれていた。1930年9月、エゴロフは彼の信条に基づき、逮捕された。逮捕後、エゴロフはモスクワ数学会の会長の職を離れ、新たな会長はエルンスト・コルマン(Ernst Kolman)が就任した。その結果、ルージンはモスクワ数学会とモスクワ大学を去ることになった。エゴロフは、獄中で起きたハンガー・ストライキの後、1931年9月10日に没した。1931年、エルンスト・コルマンはルージンに対しての最初の告訴を行った。 1936年の6月から8月にかけて、ルージンは、新聞プラウダ上での一連の匿名記事によって、批判に晒された。後に、こうした記事はエルンスト・コルマンによるものとされている。記事の申し立てるところによれば、ルージンは科学論文を称した紛い物を出版し、自分の学生の発見を自らの業績とすることに恥じ入らず、黒百人組、正教会、ファシズムをわずかに現代化したものでしかない君主政治主義者のイデオロギーに近いということであった。ルージンはソ連科学アカデミーの委員会による特別諮問会で審議を受けたが、全ての告訴理由をソビエト市民として正体を隠した敵であると書き入れられるものであった。告訴理由の一つは、主要な結果を海外の論文誌で発表したことであった。こうした政治的な仄めかしや誹謗中傷はプラウダ紙の記事のずっと何年も前から年老いたモスクワの教授職に対して使われてきたものであった。 ルージンに対する政治的な攻撃は、ヨシフ・スターリンの弾圧的な思想の当局だけでなく、パベル・アレクサンドロフに率いられたルージンの学生の集団によって引き起こされた。パベル・アレクサンドロフはコルモゴロフとのホモセクシュアルな関係を暴露するとの脅迫により、圧力を掛けられていたかもしれないとされる。委員会がルージンを有罪宣告したのに関わらず、彼は科学協会からの追放も逮捕もされなかった。当時の有罪宣告された大半の者の処罰に比べて、ルージンの処罰がはるかに軽かったことい関してはいくつかの憶測があるが、確からしいものはない。数学史研究家のA.P. ユシュケビッチは、スターリンは目の前に迫ったレフ・カーメネフやグリゴリー・ジノヴィエフらのモスクワ裁判に強く関心を持ち、ルージンの最終的な運命などには全く興味がなかったと推測している。それでも、スターリンの死後もルージンは名誉回復されなかった。 しかし2012年1月17日、ロシア科学アカデミーは上記の決定を取り消し、ルージンの名誉をようやく回復した
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