リンガエン湾上陸とマニラ侵攻
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「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事における「リンガエン湾上陸とマニラ侵攻」の解説
1945年1月9日、連合軍は、3日間以上の激しい事前砲爆撃に続いて、ルソン島リンガエン湾に上陸を開始した(リンガエン湾上陸(英語版)、1月6日 - 1月9日)。まずアメリカ軍の第6軍(司令官:クルーガー中将。7個師団・2個砲兵群基幹)が上陸し、うち2個師団がマニラ奪還を目指して南下をはじめ、2個師団が北部の制圧へと向かった。 対する日本側の第14方面軍(司令官:山下奉文大将)は、部隊を3つの集団に分けて持久戦を図る戦略であった。山下大将自身が率いる尚武集団(5個歩兵師団、1個戦車師団、2個独立混成旅団基幹の15万2千名)をバギオを中心とした北部に、横山静雄中将の振武集団(2個師団基幹の10万5千名)をマニラを含む南部に、塚田理喜智中将の建武集団(各種集成部隊3万名)をクラーク飛行場群のあるマニラ北東地区に配置した。 リンガエン湾には、尚武集団の第23師団と戦車第2師団、独立混成第58旅団が迎撃態勢についていた。北部制圧に向かったアメリカ軍2個師団と激しい戦闘となり、2月上旬までアメリカ軍の進撃を遅らせた。この間に、北部には大量の軍需物資が搬入された。 他方、南部へ向かったアメリカ軍2個師団は、建武集団を撃破して200 kmの前進に成功し、1月下旬にはマニラ郊外へ到達した。建武集団は陸海軍の航空部隊を集成して地上戦に転用した部隊で戦力は乏しく、残存部隊は山中の複郭陣地へ後退し、次第に組織としての統制を失っていった。連合軍は、バターン半島とマニラ南方へもアメリカ第8軍を上陸させ、多方面からマニラ市への攻撃を開始した。当初、日本側第14方面軍はマニラ市について無防備都市宣言する計画であったが、海軍や第4航空軍、大本営の反対により実現しなかった。マニラにはマニラ海軍防衛隊(司令官:岩淵三次少将)の陸戦隊などが立て篭もり、約1ヶ月間の激しい市街戦となった。3月3日にマニラは陥落したが、それまでに連合軍の激しい無差別砲爆撃によって市街地は廃墟と化した。市民の犠牲者は約10万人と言われ、米軍も民間人を巻き込んだ無差別爆撃について「当時の有色人種に対する人種差別によるもの」としている。(詳細はマニラの戦い (1945年)及びマニラ大虐殺を参照) リンガエン湾上陸以来の戦闘により、アメリカ軍は死傷2万5千名の損害を受けた。日本軍の損害はマニラ市街戦のみで戦死1万6千名に及んだ。 バターン半島には永吉支隊(第10師団の1個連隊基幹)とコレヒドール支隊(1個大隊基幹)が展開していたのに対し、激しい砲爆撃の後にそれぞれ1月30日と2月17日にアメリカ軍が上陸して攻撃を加えた。コレヒドール島には空挺部隊も降下した。日本軍は夜襲により抵抗したが、コレヒドール要塞は3月に陥落し、生存者300人だけが永吉支隊に合流した。9月上旬に投降した時の日本軍残存兵力は僅かに約280名だった。
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