ラーテナウ (Rathenau, Emil)
ラーテナウという人は
エミール・ラーテナウ
ハノーヴァー大学、チューリヒ大学で学ぶ。 ベルリンの機関車工場とイングランドの機械工場で技術者として働き、ベルリンの小さな工場を経営するに至る。 自分の工場を売却し、企業設立の機会を探していたラーテナウは、1881年のパリ国際電気博覧会でエジソンの展示を見てドイツ国内におけるエジソン特許購入を決意する。
ラーテナウの主な経歴
1882年、フランスのエジソン社から特許を購入する。 ”研究商会”というエジソンの設備をドイツ国内で試すための冒険企業を設立する。
1883年、ラーテナウを社長としたドイツ・エジソン社が発足し、ミラーもこれに加わる。 電灯とエネルギー伝送のための電気の測定、配分、応用に関するエジソン特許の全てを工業的に使用することを目的として設立され、特許使用料は35万マルクであった。 また、当時ドイツで最大の電気メーカーであるジーメンス・ハルスケ社と合意契約を結んだ。 ジーメンス・ハルスケ社は、スワンの白熱電球を今まさに試験製造しようとしていたところであったが、これにより中止された。 エジソン形の発電機をジーメンス・ハルスケ社が製造し、ドイツ・エジソン社が購入、販売するという形になった。
1884年、ベルリンのフリードリヒで100kW程度の小さな発電所が運転を始める。 多くの問題が発生し、需要家をなだめている間に修理するといった状態であったようだ。
1885年、ベルリンのマルクグラーフ街に754kWの発電所が運転を始める。 ここでジーメンス・ハルスケ社製のエジソン発電機が使用された。 ニューヨークのパールストリートとの違いはパールストリートは蒸気機関と発電機が1:1であったのに対し、マルクグラーフは蒸気機関一基の出力をベルトで伝えていた点があげられる。 また、1886年にはベルリンのマウアー街に285kWの発電所が運転を始めた。 マルクグラーフとマウアーの負荷は劇場、銀行、飲食設備、商店、ホテル、街灯といたところである。(すべて白熱電灯。直流)
マルクグラーフ発電所
1887年、ドイツ・エジソン社は再編成されAEG社となった。 順調に成績を伸ばすドイツ・エジソン社に対し、パリのそれは劣悪であり、ドイツとパリのエジソン社は関係が悪化していった。 強力な企業家が求められ、ヴィラードがその任に就く。 アメリカ・エジソン社からは独立し、ジーメンス・ハルスケ社との契約は更新された。 資本金は増額され、発電所を含めた電力インフラ事業は加速していく。
1888年、マルクグラーフ発電所の拡張。1889年、シュパンダウアー発電所開業。 シュパンダウアーではジーメンス社による特別設計の1000馬力多極発電機が使用され、低速蒸気機関に直結された。 このあたりではエジソンの技術力を追い越していた。
エミール・ローラン・ラーテナウ
1900年にはAEG社は電気機械や電気装置のメーカとしては、ジーメンス・ハルスケ社を超える。 白熱電球のメーカーから10年とたたないうちに、電力設備、ひいては多相機を導入し、電力インフラ事業を手がけ、1890年代には市街電車システムの建設に力をいれた。 ジーメンスが発明、技術、産業科学の発展に貢献したのに対し、ラーテナウは投資資本、産業企業、組織化されたマーケティングで会社を発展させ、ドイツの電気産業の成長に貢献したといえる。
AEG社の主な技術者たち
- オスカー・フォン・ミラー
- ゲオルク・クリンゲンベルク
- ミヒャエル・オジポウィッチ・フォン・ドリヴォ‐ドブロウォルスキー
固有名詞の分類
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