テレフンケンを吸収するまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 07:19 UTC 版)
「AEG」の記事における「テレフンケンを吸収するまで」の解説
1883年、トーマス・エジソンの特許を取得したユダヤ人実業家エミール・ラーテナウ(英語版)(政治家ヴァルター・ラーテナウの父親)が、ジーメンス・ウント・ハルスケと数行の支援を受けドイツ・エジソン社(Deutsche Edison-Gesellshaft, DEG)を創業した。これがAEGとなり、ベルリンのアメリカ資本として世界史を動かした。1903年、ラーテナウがウニオン社(Union-Elektricitäts-Gesellschaft)を吸収合併するため親会社のゼネラル・エレクトリック(GE)と協議し、同年秋に合意を得た。20世紀初頭、にわかに多国籍企業となってGEと世界規模のカルテルを結んだ。そしてシーメンスと並ぶ独占資本となり、第一次世界大戦でも両社は協力した。AEGをめぐるGEとシーメンスの綱引きは戦後処理をきっかけとして一挙に後者が有利な展開となった。ヴァイマル共和政は合衆国資本の虜となったのである。AEGは1929年の増資に際し、株式資本の1/4にあたる額面1億マルクをGEへ2億マルクで売却した。この資金提供と引き換えにAEG はGE に監査役の席を5つ与えたが、その一つはオーウェン・D・ヤングが占めた。このような経緯からJPモルガンと緊密なコルレス関係にあるドレスナー銀行がAEGの伝統的なメインバンクであった。 このドレスナーがダナート銀行をかばって傾くと、AEG はナチスドイツの統制経済に組み込まれた。ほとんどの設備をAEG は第二次世界大戦で焼失した。その代わり1946年10月、リーダーのビューヒャーが放免された。AEG は戦後西ドイツにおける独占解体を免れ、復古的な米仏資本による経済の奇跡を享受した。主権の回復された1954年から増資を続け、ベルリンの壁ができてからの軍需生産を担った。この目的で1967年、テレフンケンを100%支配して吸収合併した。
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