ヴィラード (Villard, Henry)
ヴィラードという人は
バイエルン中流階級に生まれ、1853年、アメリカに移住する。 企業家のしての手腕、J・ピアポンド・モルガンとの親交、ドイツとの金融上のつながりを利用してアメリカ北西部に鉄道王国を組織する。 モルガンの後援を得て、1881年、ノーザン・パシフィック鉄道の社長に就任する。 また、エジソンのパールストリート発電所計画の中で重要な役割を演じ、エジソン電灯会社において初期の年々には役員を務める。
ドイツ・エジソン社においてラーテナウが創業初期の生みの苦しみを乗り越えるころ、パリ・エジソン社の成績は劣悪であった。 ヨーロッパ・エジソン諸企業への悪影響が懸念され、組織建て直しのため強力な企業家が求められ、ヴィラードが名乗りをあげる。
ヴィラードはアプトンと、ドイツにおいての資金調達やドイツ・エジソン社とパリ・エジソン社の不和解消、ドイツ・エジソン社とジーメンス・ハルスケ社の関係発展やドイツ・エジソン社の組織再編成について相談し、ドイツへ渡る。 1886年にヴィラードはアメリカへ帰還するが、ドイツでの改革は実を結ぶことになる。 1887年、ドイツ・エジソン社は再編成し、社名を総合電気会社(AEG社)に変更する。 ジーメンス・ハルスケ社との契約は改訂され、AEG社の資本金は500万マルクから1200万マルクに増額し、ベルリンの発電所計画の資金になる。 ところが、AEG社とその子会社にエジソンの名が冠することはなく、エジソンへ多額の支払いがなされた後、エジソンとの契約を打ち切った。 以後は交流システム開発へ歩みだす。
ドイツ金融やモルガンを後ろ盾にもつヴィラードは、1889年、アメリカ・エジソン諸企業の組織再編をする。 ラウリーとエジソンが立ち上げた各企業や、その他関連企業を含めてエジソン・ゼネラル・エレクトリック社とする。 この際の資金の半分以上はヴィラードがドイツからもたらした。 さらにトムソン・ヒューストン社と合併する際にはエジソン・ゼネラル・エレクトリック社からゼネラル・エレクトリック社(GE社)へ社名を変更する。
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