ラリーライダーとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 22:57 UTC 版)
「ステファン・ペテランセル」の記事における「ラリーライダーとして」の解説
1987年、21歳のとき、彼はジャン=クロード・オリビエ(JCO)に見出され、スカウトされた。オリビエというのはヤマハのフランス現地法人、ヤマハモーターフランス(YMF)の社長であり、かつパリダカ黎明期にバイクを開発しつつ自身がライダーとしても活躍し、1985年には同ラリーの二輪部門で(1位とほんの僅差の)2位を獲得した実績もある、フランスで有名な人物であった。1987年9月、ヤマハ・モーター・フランスと契約。 こうしてペテランセルは、ペテランセルにとってそれまでチームメイトでアイドルと言ってもよかったようなユベール・オリオール(フランス語版、英語版)とシリル・ヌブー(フランス語版)の元は去り、あこがれだったアンドレ・マレルベ(フランス語版)(=モトクロス世界選手権500ccクラスで3度チャンピオンを獲得したベルギー人)とともに、ヤマハ・モーター・フランス(YMF)チームの一員としてパリダカに参戦することになった。ペテランセルは、ジャン=クロード・オリビエをして「秘蔵っ子」と言わしめた。 初めてのパリダカ参戦となる1988年大会では総合18位に終わる。チームメイトのマラーベは、3日目にクラッシュして四肢麻痺となる重傷を負ってしまうが、ペテランセルはパリダカの魅力にとりつかれてしまう。同年、コリンと結婚し、またインターナショナル・シックスデイズ・エンデューロ(英語版)(ISDE)でも優勝した。 翌1989年、2回目のパリダカでは総合4位。 1991年は、25歳の彼にとって記念すべき年となった。初めてパリダカで二輪部門の総合優勝を果たし、それまでホンダが勝ち続けてきたメーカータイトルをヤマハにもたらしたのである。以後、1992年、1993年、1995年、1997年、1998年と合計6度の優勝を飾る。後年、ワークスチームは実質的にヤマハとKTMの一騎討ちの様相であったが、一人ペテランセルだけが総合トップを走り続けて総合1位を獲得、総合2位以下はすべてKTMライダーというような状況であった。優勝していない1994年はヤマハチームが不参加だった年、1996年はラリー中に誤って軽油を給油され大幅に順位を落としたことに抗議し、レースをボイコットした年である。 1998年、6度目の優勝を飾り、ヌブーの持つパリダカ優勝回数記録を塗り替える。しかし、レース中に手首にひどい傷みが生じ、それが彼を苦しめ、精神的にもダメージを被る。それが元で、以後のパリダカへは、バイクに比べれば肉体的負担の少ない四輪で出場することになる。 2014年現在の記録で、パリダカにおける二輪のスペシャルステージ優勝回数はペテランセルが33回で2位となっている。また、メーカー別優勝回数はヤマハが9回で2位であり、そのうち6回がペテランセルの功績であることも特筆すべきであろう。
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