ラリーレイド/ヒルクライム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/17 03:30 UTC 版)
「アリ・バタネン」の記事における「ラリーレイド/ヒルクライム」の解説
プジョーはWRC撤退後にパリ・ダカール・ラリー(パリ・ダカ)へ活動を移し、怪我から復帰したバタネンもチームに参加した。1987年はプジョー205ターボ16GRを駆り第9回大会で優勝。その後第11回(1988年末-1989年)と第12回(1989年末-1990年)も優勝。間の第10回(1988年末-1989年)もその年の新型車両のプジョー・405ターボ16を駆り、日程途中まで首位を走っていたが、車両が盗難に遭うという大会史上前代未聞の事態が発生し、後に失格の裁定が下された(ダカール・ラリー、および同大会3位のパトリック・タンベイの項目参照)。コ・ドライバーのベルグルンドと共にシトロエンに移り、第13回(1990年末-1991年)でも優勝している。 パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムのアンリミテッド・クラスにも1987年~1989年に出場。1987年はプジョー・205T16で2位と手応えを掴むと、翌年はライバルであるアウディ勢の出した記録を405T16で更新し、優勝する。 政治家となった後もモータースポーツに対する情熱を失わず、2003年には日産からダカールラリーに参加、総合7位の成績を収める。この年WRCラリー・フィンランドでもプジョーで総合11位を獲得。2004年と2005年も、日産のドライバーとして参加している。2007年にはフォルクスワーゲンからダカール・ラリーに参加したが、途中でリタイアしている。
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