ラビの戦い、沈没
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/27 03:15 UTC 版)
「弥生 (睦月型駆逐艦)」の記事における「ラビの戦い、沈没」の解説
第二次ソロモン海戦が行われていたころ、ニューギニア方面では、ニューギニア島東端のラビ攻略作戦が開始されていた。8月25日に陸戦隊が上陸するも苦戦。増援として呉鎮守府第三特別陸戦隊(呉三特)と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊の一部(吉岡中隊)の派遣が決定された。「弥生」と駆逐艦「嵐」、「叢雲」、「第三十六号哨戒艇」、「第三十八号哨戒艇」、「第三十九号哨戒艇」が呉三特と吉岡中隊を乗せ、軽巡洋艦「天龍」、駆逐艦「浦風」、「谷風」に掩護されて8月28日にラバウルより出撃。8月29日にラビ付近に到着し、陸戦隊を上陸させて帰途に就いた。 一方、ブナから舟艇機動でラビ攻撃に向かった佐世保鎮守府第五特別陸戦隊の一部(月岡部隊)が消息不明となっており、月岡部隊の上陸予定地であるタウポタ(ラビ北方)へ9月3日に「弥生」は連絡員を上陸させた。しかし、月岡部隊上陸の形跡はなく、「弥生」はラビ方面の陸戦隊との連絡のためミルン湾へと向かった。タウポタには連絡員20名が残されたが、その後救出できず、最終的に行方不明となった。 9月4日、「弥生」はミルン湾に進入し、糧食の揚陸と重傷者などの収容を行った。この後、ラビからの撤収が決定された。 前述の月岡部隊はグッドイナフ島で敵機の攻撃により大発をすべて失ったうえ、通信も不能となっており、9月9日になってその居場所が判明。9月10日、「弥生」と駆逐艦「磯風」がラバウルから救助に向かった。しかし、9月11日に「弥生」はアメリカ陸軍航空軍のB-17とオーストラリア空軍のハドソンにより撃沈された。戦史叢書によれば9月11日12時ごろラビの東にあるノーマンビー島(ノルマンビー島)の東方で空襲を受け、「弥生」は後部への被弾により舵が故障、続いて航行不能となり、16時15分沈没した。第十八戦隊戦時日誌によれば15時35分に被弾し舵故障、15時45分に再度被弾して航行不能となり、16時15分に沈没。沈没地点はノーマンビー島東方15浬の南緯10度3分 東経151度27分 / 南緯10.050度 東経151.450度 / -10.050; 151.450。戦闘中に「弥生」と離れてしまっていた「磯風」が日没の16時40分ごろに「弥生」救出に向かったが、油らしきものが見つかったのみであった。翌日の「天龍」、「浜風」による捜索でも成果はなかった。陸地に灯火(これは「弥生」乗員によるものであった)を認めたものの、確認せずに帰投してしまっている。 梶本艦長以下「弥生」生存者はカッターボートに乗ってノーマンビー島へ上陸しており、現地のタロ芋等を調達して飢えをしのいだ。9月21日に「弥生」のものと思われるカッターが戦闘機により発見された。これはノーマンビー島より出発した「弥生」のカッターで10名が乗っており、9月21日に「磯風」、「望月」と「君川丸」水偵による捜索で発見され「磯風」に収容された。同日深夜、2隻は収容した生存者の誘導のもとノーマンビー島北東端に到着、探照灯・サイレンを用いて連絡を取ろうとしたが、弥生乗組員は敵上陸のため森林に退避しており、救出に失敗した。9月23日に陸攻がノーマンビー島で「弥生」生存者らしきものを発見。9月25日21時に「磯風」、「望月」は再出撃し、2隻は26日夜半に同島へ到着すると梶本艦長以下乗組員83名を救助した。 「弥生」の戦死者は68名であった。第三十駆逐隊司令も戦死している。 同年10月20日、駆逐艦「弥生(彌生)」は一等駆逐艦卯月型、帝国駆逐艦籍、第30駆逐隊のそれぞれから除籍された。12月1日、「睦月、弥生」を喪失した第30駆逐隊も解隊された。「弥生」沈没時の艦長だった梶本少佐は、のちに夕雲型駆逐艦「清霜」艦長に就任。「弥生」主計科のある短期現役士官は重巡洋艦「熊野」主計長となり、同艦沈没時に戦死した。
※この「ラビの戦い、沈没」の解説は、「弥生 (睦月型駆逐艦)」の解説の一部です。
「ラビの戦い、沈没」を含む「弥生 (睦月型駆逐艦)」の記事については、「弥生 (睦月型駆逐艦)」の概要を参照ください。
- ラビの戦い、沈没のページへのリンク