ライブ形式の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:11 UTC 版)
プロデビュー以来"ライブの拓郎"としてライブの型を日本の音楽界全体に確立させた。 コンサート・ツアー 1973年10月、タレント売り出しに何千万もかけてテレビ中心に売り込みをかける当時の業界への反発から、日本のミュージシャンで初めてPA、照明などのスタッフを帯同しての全国ツアーを敢行する。当時はイベンターという職業はまだなく、当時のコンサートは地方の有力者などが主催し、フォークソングといわれている人たち10組とかを寄せ集め、1人10分、15分の持ち時間で歌を歌わせていた。拓郎は「主催者は音楽を分かってない。10分で吉田拓郎は分からない。そんな環境で歌えるか、最低でも2時間ぐらい歌わないと分かってもらえない」という反発心が、単独ツアーをやりたいという発想に結びついた」、「旧態依然とした芸能界とか歌謡界が日本の音楽をつくってきたとしたら、そこに一つ区切りをつけて『これからは違う』というのをやってみせたかった」などと話している。当時、この手法は色々と困難であるという指摘を受けたという。実際、会場が取れないなどの軋轢も生んだが、やがてこのシステムが一般的となった。このことは、従来地元の興行師が仕切って来た運営が縮小し、各地のコンサートプロモーターの誕生につながり、ぴあに代表されるチケット事業、情報サービス事業など、新たな産業を生み出した。後藤由多加は「1970年代の初めに、拓郎を中心に俺達の時代をこれからつくっていくんだと、地方のプロモーターの方々はみんな思ってくれていた」と述べている。また、1973年11月26・27日に東京中野サンプラザホールで行われたライヴ音源はアルバム「よしだたくろう LIVE '73」として発売されている。 大ホール連続公演 1973年10月に神田共立講堂で2日、渋谷公会堂で同じく2日と4日連続で行われた公演も今では珍しくない大ホール連続公演の日本でのさきがけと言われる。最初は日本武道館で1日だけと考えていたが、拓郎自身が「雰囲気もいや。音楽やるのに向いてない」と武道館を嫌い、別の同一会場で、当初1週間連続を計画したが、会場の都合が付かずこのような形態になった。 元祖夏フェス 1975年8月2日〜3日に開催された「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」は画期的なものだった。 1985年7月27日から7月28日にかけて「吉田拓郎 ONE LAST NIGHT IN つま恋」を開催した。自身二度目のヤマハリゾートつま恋でのオールナイトコンサートで、1975年・2006年に同所で行われたコンサートがかぐや姫との共同であったのに対し、1985年は単独でのコンサートとなった。 2006年9月23日、31年ぶりにつま恋でかぐや姫と「吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006」を開催した。 離島イベント 1979年7月26日〜27日に行った篠島コンサートは、一つの離島を借切るというイベントで、日本のコンサートでは史上初の試みであった。先のつま恋と合わせ、常識を覆して深夜に人を集めるという方法で成功を収めた。ゲストに小室等、長渕剛を迎え、2万4千人を集めた。デビュー2年目の長渕が一時の拓郎のように「帰れコール」を浴びながら最後までステージを押し通した話は長渕の有名なエピソードである。
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