メス攻囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:47 UTC 版)
「フランソワ・アシル・バゼーヌ」の記事における「メス攻囲戦」の解説
8月19日、メス(メッツ)要塞に後退したライン軍18万5千人(第Ⅱ軍団、第Ⅲ軍団、第Ⅳ軍団、第Ⅵ軍団、第Ⅶ軍団、帝国親衛隊、および予備騎兵)は16万8千人のプロイセン軍第1軍及び第2軍に包囲されることとなった。 メス要塞は当初7万人を3ヵ月半から5ヵ月養う程度の食糧しか備蓄しておらず、籠城軍全体に配分した場合41日分の食糧および25日分のオート麦(シリアル)しかないと見積もられていた。早期に包囲を打開しシャロン軍と合流する必要に迫られたバゼーヌは、8月31日に4万の兵をもって包囲の打開を試みるものの敗北。一方、翌9月1日にはセダンにおいてもシャロン軍12万人が敗北しナポレオン三世ともども降伏する事態となっており(セダンの戦い)、救援の望みはなくなっていた。 バゼーヌのライン軍はこのシャロン軍降伏以降、フランス最後の希望となったものの行動は消極的であった。10月7日および10月18日のそれぞれで包囲の突破を試みたもののいずれも失敗し、合わせて7,000~10,000人程度の損害を被っている。10月20日にはついに食糧庫が払底したため、輜重馬、さらには騎兵馬を合わせた2万頭の軍馬を食肉として毎日1000頭ずつ消費する状況に陥った。飢餓と疾病,これまでの度重なる敗北により要塞内において2万人ほどが野戦病院に詰めかけるような有り様であった(一方のプロイセン軍も4万人ほどが疾病であった)。10月27日、苦渋の末バゼーヌはついに17万3千の兵とともに降伏した(→メス攻囲戦)。降伏に際してプロイセン軍はその名誉のための会戦を提示したがバゼーヌは拒否している。この戦いと9月1日のセダンの戦いの敗北により、正規軍49万人のうち30万人以上を失ったフランスの敗戦は決定的となる。以後も普仏戦争は続くものの1871年1月にパリは陥落、第二帝政は崩壊した。 バゼーヌの普仏戦争中の一連の不本意な敗北に関しては、彼自身が自軍の兵備に対して大きな不安を抱いており、積極策を取る事を躊躇したことが原因の一つと言われている(彼が開戦直後友人に宛てた手紙の中に、"Nous marchons a un desastre"「我々は敗北に向って進んでいる!」という一節がある)。だが一方で、攻囲軍側の将官にバゼーヌの外人部隊時代の同僚がいたことや、バゼーヌ自身の政治的野心などから、彼がプロシア側と内通を図っていたのではないかという疑惑も根強くあり、またその意見が当時のフランス世論の大勢を占めたことで、結果的にこの行動が彼を窮地に陥らせることになった。
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