ロワール方面の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)
トゥールで国防政府派遣部を指揮するレオン・ガンベタは、新しいフランス軍の徴兵を開始した。 ドイツ軍の「皆殺し」計画についての真偽不明のニュースがフランス人を激昂させ、それによってフランス市民は新政府への支援を強め、数週間のうちに総兵力50万人以上の5個軍が新設された。 こうした動きにドイツ側も気付き、新しいフランス軍がパリ攻囲戦やその他の場所で大きな脅威となる前に発見、攻撃、分散させるため、幾らかの部隊をフランス各地へ派遣した。ドイツ軍はフランス全土を占領する用意はできていなかった。もしフランス全土を占領するとなれば、軍の配置が広がりすぎる。そうなれば1864年と1866年に戦って勝利したデンマークやオーストリアに対する備えが手薄になる。 10月10日、オルレアン付近でドイツ軍とフランス共和国軍の間の戦闘が起こった。当初はドイツ軍が勝利したが、フランス軍が援軍を送り込み、11月9日のクルミエの戦いでドイツ軍を破った。しかし、メス攻囲戦においてフランス軍が降伏した後、実戦経験のある10万人以上のドイツ軍精鋭部隊がドイツ軍の「南方軍」に加わった。この結果、フランス軍は12月4日にオルレアンを放棄せざるを得なくなり、最終的にル・マンの戦い(1月10〜12日)においてフランス軍は敗北した。 パリの北方で作戦しているフランス第2軍はアミアンの戦い(1870年11月27日)、バポームの戦い(1871年1月3日)、サン・カンタンの戦い(1月13日)と転戦した。
※この「ロワール方面の戦い」の解説は、「普仏戦争」の解説の一部です。
「ロワール方面の戦い」を含む「普仏戦争」の記事については、「普仏戦争」の概要を参照ください。
- ロワール方面の戦いのページへのリンク