継戦とパリ包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)
プロイセン首相ビスマルクは勝敗が決まった時点で即講和し、ゆるやかな条約を結びフランスに遺恨を残さないでおこうと考えていた。しかし、大モルトケと軍と世論はアルザス=ロレーヌ併合を求めて強硬に反対した。また、フランスはオーストリアのように将来同盟国となる可能性は無く、統一ドイツ帝国が実現すれば列強と対等の同盟を結び、フランスを外交的に封鎖できると考えられた。 一方のフランス側も、領土の割譲を激しく拒否したため、戦争は続行された。 プロイセン軍は、各地の要塞や残存部隊による小規模な抵抗を各個撃破しつつ、パリへ進撃した。9月19日、遂にパリが包囲された(パリ攻囲戦 (1870–71)(英語版))。プロイセン軍は背後にあるメス(メッツ)要塞のバゼーヌ元帥麾下の軍団を警戒して一気に攻め込むことはしなかった。10月27日、メス攻囲戦で、大した戦闘もないままバゼーヌ元帥が18万人の将兵とともに降伏し、フランス軍の組織的な反攻は不可能になった。
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