継嗣問題と死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 03:48 UTC 版)
同じ文政6年頃から、御簾中峰姫との結婚より10年目を迎えて、いまだ子女がなかったことにより、継嗣問題が表面化する。 文政6年(1823年)の頃、峰姫の父である徳川家斉は、多くの子のうち誰かを水戸家へ養子に遣わしたいと峰姫にもらしたという(『水の一すち』)。斉脩の4人の異母弟のうち、1人は早世し、2人(松平頼恕、松平頼筠)は支藩の養子に出ていたが、三男の敬三郎(紀教、のちの斉昭)が部屋住みで残っていた。 文政11年(1828年)頃になると、家斉の第20子の恒之丞(徳川斉彊)が養子候補に挙がり、恒之丞と敬三郎(斉昭)の長女・賢姫(のちに宇和島藩主伊達宗城と婚約するも夭逝した)とを結婚させて、水戸藩を継がせるという話も出た。将軍の子の養子入りで幕府との関係を深め、さらなる援助または加増を図りたい上士層に対し、おもに下士層からなる改革派は斉脩の治世で冷遇されたこともあって激しく反発し、血統から舎弟・敬三郎の継承を主張して、激しく対立した。 文政12年(1829年)9月、折から病となっていた斉脩の病状が悪化し、10月1日、敬三郎(斉昭)擁立派40名あまりが無断で江戸に上り、緊迫した事態となった。そうした中、斉脩は10月4日に死去した。享年33。 ほどなく、敬三郎を養子とする旨の遺書が見つかり、継嗣問題が決着し、幕府の許可を得て敬三郎(斉昭)が家督を継いだ。 遺書において、自分は薄徳の身であるから、葬儀は簡素にし、諡号も先代たちのように立派なものではなく「哀」か「戻」にして欲しい、とあったことから、哀公と諡された。
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