マーチャント・バンクの機関化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 00:03 UTC 版)
「オーストラリア」の記事における「マーチャント・バンクの機関化」の解説
1960年代と1970年代は激動期であった。羊毛主体であった産業構造は鉱業主体となった。この間にまずポセイドン・バブルが起きた。それから国際的に遅れて変動為替相場制をとった。また、この期間にオーストラリア系銀行は日本・香港・マレー半島を除く極東地域で支店数を増やした。1961年にたった12店舗であったのが1978年に528店舗となり、これほどの急展開を諸外国の銀行に見ることはできなかった。1980年マーチャント・バンクのニューガン・ハンド・バンクが倒産した。CIAの天下る同行は資金洗浄でもスキャンダルとなり、マーチャント・バンクの機関化する背景を成した。1986年、ロイズ銀行がスタンダードチャータード銀行に買収をしかけた。ホワイトナイトを演じたロバートは、スタンダードチャータード銀行のトップ・マネジメントに迎えられた。クー・テクバはスタンダードチャータード銀行の重役を辞めた。一番上の息子邱万福(Khuu Ban Hock)はブルネイ国立銀行元会長であったが、同行で金融犯罪に手を染め折り悪く有罪を認めていた。ブルネイ国立銀行はクーが王族と出資割合7対3で1965年に創立したが、ブルネイ通貨委員会の設立が2年後であるのと比べて早い。この1986年にはHSBCと懇意の李嘉誠が万科城市花园别墅を中国光大グループに売却し内部者取引として非難を浴びているが、2000年パワーコルオーストラリア を買収、2013年パワーコルオーストラリア親会社の南オーストラリア電力の持つ利権をめぐって税務署と衝突し、2017年1月現在も電力事業の買収を続けている。 1990年代、香港経済の脱英国化が進行した。この頃にマーチャント・バンクは機関化されていった。このとき動いていた機関投資家は欧米の投資信託や保険会社であった。これらはオーストラリアの機関投資家を内から蚕食していったものと考えられる。2001年3月15日、HIH保険がサウスウェールズの最高裁から暫定破産の許可を得た。2001年8月27日には解散命令を受けることになり、負債総額は36億オーストラリア・ドルから53億に達した。HIHは企業編成をした1995年、アクサに持株会社を買収された。その後HIHは合衆国の保険会社を買収するほどの拡大経営を展開した。1998年8月、アクサは資本を引き揚げた。1999年、HIHは国内のFAI保険を公開買い付けで買収した。2000年9月13日にアリアンツへ国内個人向け事業を5億ドル近くの廉価で譲渡して、翌日からすぐHIHの株価は低迷するようになった。不自然な取引は調査に付された。バークシャー・ハサウェイの保険会社は、HIHの清算人へ200万ドルを払い込んでいた。この事件は2005年、やはりバークシャー・ハサウェイの保険会社ジェネラル・リーで不正会計が問題となったときも振り返られたのである。
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