マルショヴィッツの陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:12 UTC 版)
「第二次シュレージエン戦争」の記事における「マルショヴィッツの陣」の解説
10月はこの戦役の転換点であり、戦場の主導権は圧倒的に優勢だったはずのプロイセン軍からオーストリア軍の手に移った。危機に瀕したプロイセン軍は急遽反転し、オーストリア軍がベネシャウに到着する前にそこに急行しなければならなかった。10月8日、モルダウを再渡河したプロイセン軍はすぐにまたベヒンでモルダウ支流ルシュニッツを渡河して北進した。 10月9日、本隊に引き続いて車両部隊が通過し続けるモルダウタインを数千のパンドゥール部隊が襲撃し、ツィーテンの指揮するフザール連隊および擲弾兵2個大隊との間に激しい戦闘が行われた。殺到するパンドゥールに対し、プロイセン軍は葡萄弾で彼らの突撃を粉砕し、フザールで果敢に斬り込むことで敵を追い崩した。プロイセン軍はモルダウタインを守り切り、車両部隊の通過を済ませた。 大王はオーストリア軍がモルダウ東岸に渡った後でも依然として会戦によって彼らを撃退し、モルダウの線を維持するつもりだった。モルダウ上流地域には輸送できなかった物資、多数の傷病兵も残っており、大王はブトヴァイス、フラウエンベルクに彼らを集結させ、守備兵を置いて保持しようとした。しかしこの方面に進出したトレンク率いるパンドゥール部隊によってフラウエンベルクは水の手を断たれて降伏、ブトヴァイスも攻撃を一度は跳ね返したものの結局陥落してしまった。同様にターボルもオーストリア軍によって占領された。 モルダウを北上する行軍は兵士にとってより一層辛いものとなった。トラウンは自軍に投降した脱走兵の供述によって、プロイセン軍が食糧に窮していることを知っており、ハンガリー勢により精力的にプロイセン軍の補給線を攻撃するように命じていた。プラハとの連絡線はパンドゥールの浸透によって途絶しつつあり、携帯する食糧がほとんどない中で、冬の到来が彼らの体力と士気を奪い、脱走兵の数はよりいっそう増した。フザールの襲撃とパンドゥールの浸透は兵の投降を助長し、伝令の捕縛による命令の未達、分遣隊の孤立、徴発部隊への襲撃と全滅など、プロイセン軍の置かれた状況をますます困難なものとした。おまけに住民の一部がパルチザンとしてプロイセン軍への武力抵抗まで始めていた。 10月17日、プロイセン軍主力先鋒がベネシャウに到着、翌18日には大王もベネチャウに入り、ひとまずプラハとの連絡は保たれた。プラハとの距離が短縮されたことによって補給状態も一時好転し、プロイセン軍は接近するオーストリア軍に対するべく西南に向けて陣を敷いた。この時点での大王の計画は、オーストリア軍を会戦によってモルダウ西岸に追い返したら、モルダウ‐サザワ、もしくはルシュニッツ‐サザワ間の地域を確保して冬営に入り、戦争の仕切り直しを行うというものだった。 10月22日、オーストリア軍はザクセン軍と合流し、これによって兵力もオーストリアが優勢となった。23日、連合軍はプロイセン軍のすぐ近く、マルショヴィッツに堅陣を敷いた。24日、大王はただちに会戦を行うつもりでマルショヴィッツに接近し、連合軍の陣地を偵察した。連合軍はベーメンの湖沼と丘の散らばる地形を巧みに生かし、非常に攻撃の困難な陣地を構築していた。25日、一昼夜の偵察と検討ののち、大王は会戦を断念して撤退せざるを得なかった。 このマルショヴィッツの陣において、のちの七年戦争ではいつも果敢に会戦を仕掛けた大王がなぜ攻撃を断念したかについて、理由の第一はその地形にあり、なるほど有利な位置を占めるオーストリア軍に攻撃をかけて勝利を得た事例は多いけれども、もしこのとき攻撃を行えばそれはプラハやトルガウではなくコリンやクーネルスドルフのような結果となっただろうとされる。また第二は軍の状態にあり、このときのプロイセン軍兵士は先の1カ月の行軍とその間の食糧不足により著しく消耗衰弱しており、士気も沈滞して通常の戦闘能力が期待できる状態ではなかったのである。
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