プロビデンスへの入植
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/05 18:27 UTC 版)
「ロジャー・ウィリアムズ」の記事における「プロビデンスへの入植」の解説
1635年6月、ウィリアムズは現在のロードアイランド州プロビデンスの地に着いた。そこでナラガンセット族の酋長カノニカスから土地を「購入」した。インディアンには「土地を売る」という文化は無かったので、これを彼らが理解していたかどうかは疑わしい。 ウィリアムズはともあれ、12人の「愛する友と隣人」(数人の開拓者は春の初め以来マサチューセッツから行動を共にしていた)と共に開拓地を造った。ウィリアムズの開拓地は平等の原則に立っていた。「我々の大半が同時に仲間にすべきと投票する者は」その共和国の一員となると定められた。多数意見に従うことが全員に約束させられたが、「公共の事項」に限られた。1640年、「良心の自由を保持し続ける」という決意を表明する合意事項に39名の自由人が署名した。このようにして当時としては特徴ある政府が作られた。政府は明確に信教の自由と、公共と教会の権威(教会と国)との間の分離を定めた。 この植民地はプロビデンス(神の摂理)と名づけられた。これは、神がウィリアムズとその追随者を支え、この地に連れてきたというウィリアムズの信念に基づいた名前だった。ウィリアムズがナラガンセット湾の島々を手に入れた時、他の美徳である「忍耐」「用心深さ」「希望」を島の名前に付けた。 1637年、アン・ハッチンソンと彼女に従う者数人がウィリアムズのもとを訪れマサチューセッツから出て行くことについて教えを請うた。ウィリアムズと同様、この集団もピューリタンの神政主義と相容れなかった。ウィリアムズは彼らにインディアンからアクィドネック島(後のロードアイランド島)を購入するよう助言した。この集団はポカセットと呼ばれる場所に入植し、そこが現在のポーツマスとなった。彼らの中にはアン・ハッチンソンの夫ウィリアム、ウィリアム・コッディントンおよびジョン・クラークがいた。 1643年、ウィリアムズは植民地の勅許を得るために仲間の市民からイギリスに送り出された。このときもイギリスではピューリタンが力を持っており、ヘンリー・ベイン卿の力で民主勅許が得られた。 1647年、ロードアイランドの植民地はプロビデンスと合併し一つの政府となり、良心の自由が改めて宣言された。この地域はその信条のために迫害された人々にとって安全な天国となり、バプテスト、クエーカー、ユダヤ教徒その他が平和と安全の良心に従ってこの地を訪れた。1652年5月18日、ロードアイランドは北アメリカで初めて奴隷制度を違法とする法律を可決した。 本土にあるプロビデンスやウォリックの町を一方とし、アクィドネック島の町々をもう一方とする不調和が持ち上がった。島の中ではウィリアム・コッディントンおよびジョン・クラークに追随する者達の間にも不調和があった。コッディントンは1651年にロンドンに行って、国の委員会からロードアイランド島とコナニカット島を支配する任務を確保した。この裁断ではプロビデンスやウォリックの町はそのままにされていた。コッディントンの計画はウィリアムズやクラークとその追随者をひどく落胆させた。特にその計画はコッディントンの支配する領域とマサチューセッツおよびコネチカット植民地を連邦させることを含んでいるように見えたので、島だけではなく守る術の無いプロビデンスやウォリックでも良心の自由に対する脅威となった。 コッディントンに対する多くの反対者はバプテストであった。同じ年の後半にウィリアムズとクラークは、オリバー・クロムウェルの政府からコッディントンの得た勅許の無効化と共和国としての植民地がイギリスにのみ依存しているという認識を得るためにイギリスに行った。二人は目的を遂げ、ウィリアムズは間もなくプロビデンスに戻った。ウィリアムズは人生を終えるまで、公的な事情に深い関心を持ち続けた。
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