プロビンスタウンとプリマスへの上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/12 04:04 UTC 版)
「プリマス植民地」の記事における「プロビンスタウンとプリマスへの上陸」の解説
メイフラワー号は、1620年11月11日にプロビンスタウン港に碇を降ろした。ピルグリムはその地域に入植する特許を得ていなかったので、乗船客達は上陸する権利を疑い始めた。そこには植民地を創設する法的な根拠が無いとこぼした。これに応えて、まだ海上にある船に留まっていた一団の移民が植民地を統治する為の最初の文書「メイフラワー誓約」(盟約書)を起草し批准した。この意図は植民地を統治する手段を確立することだった。それは植民地がイギリスの町のように統治されることを確認したに過ぎなかったが、多くの移民の心配を解き放つ目的には役だった。 この一団は次の日が日曜日だったので、船上に留まり祈りを捧げた。11月13日、移民達は後にプロビンスタウンと呼ばれる地に最初の一歩を踏み出した。最初の仕事はシャロップと呼ばれる底の浅い小舟を組み立てることだった。この船はイギリスで造られ、メイフラワー号で運ぶために分解されていた。メイフラワー号がイングランドに戻った後に、小舟とピルグリムが残ることになっていた。11月15日、マイルス・スタンディッシュ船長は16名の部隊を構成して探検を行い、その途中でインディアンの墓を暴き、またインディアン・コーンの埋蔵所を探し当てた。翌週スザンナ・ホワイトがメイフラワー号船上で男の子、ペレグリン・ホワイトを産んだ。この子は新世界でピルグリムの子として生まれた最初のイギリス人になった。シャロップは11月27日に完成し、これを使って2回目の探検がメイフラワー号船長のクリストファー・ジョーンズの指揮で行われた。34名が同行したが、この遠征は悪天候に悩まされた。将来の展望から考えて唯一評価できる結果は、インディアンの墓所を発見して暴き、死者のために埋蔵されていたコーンを見付けて持ち帰ったことだった。ケープコッドの3回目の探検は12月6日に出発した。このときに、現在のイースサム近くで「最初の遭遇」として知られる土地のインディアンとちょっとした衝突があった。ピルグリムは適当な入植地の確保が難しかったことと、インディアンのコーンを盗んだ上に武器を向けて怒らせてしまったことを恐れ、メイフラワー号でプロビンスタウンを離れ、プリマス港に向かった。 移民達は12月17日にプリマス港に碇を降ろし、入植地を探して3日間を費やした。幾つかの場所には駄目出しをした。クラークス島やジョーンズ川の河口の地だった。その後にインディアンが最近放棄していたパチュケットという名の場所を選んだ。この場所は防御に適していることが選ばれた大きな理由だった。入植地は2つの丘を中心にした。コールズヒルは集落が造られ、フォートヒルは防衛のための大砲が据えられることになった。この場所を選んだもう一つの重要な理由は、以前のインディアンの村人が土地の大半を切り開いており、農作が比較的容易だったからである。清水はタウン・ブルックとビリントン湖から得られた。その伝説を実証する証拠は全くないものの、プリマス・ロックは入植者達がその新しい故郷に最初に足を踏み入れた場所だとされている。 入植者達が入った地域は1614年に出版されたジョン・スミスの地図では、「ニュープリマス」と記されている。入植者達はイングランドを離れるときの港町デボン州のプリマスに因み、その地図に記された町の名をそのまま採用することにした。
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