プロビンチアへの門戸開放 (1898-1901)
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「USFSAフランスサッカー選手権」の記事における「プロビンチアへの門戸開放 (1898-1901)」の解説
各シーズン結果シーズン優勝1899 ル・アーヴルAC (1/3) 1900 ル・アーヴルAC (2/3) 1901 スタンダードAC (5/5) 1898年までUSFSAフランスサッカー選手権は「パリサッカー選手権」と同義語だったが、しかし1899年からUSFSAが地方に設置した委員会によるローカル選手権の王者たちにも、出場の道が開かれた。1899年度はパリ王者のクラブ・フランセ、ノール県王者のイリス・クラブ・リロワ (リール)、ノルマンディーからの推薦出場のル・アーヴルAC (ル・アーヴル。まだ選手権も地方委員会もなかった)の3クラブで争われ、1回戦はプロビンチア同士の対戦となった。会場はパルク・デ・プランスだったが、試合用のボールが紛失するというトラブルで中止され、その間にフィールドホッケーの選手たちにピッチが占領されてしまう。アミアンでの再試合をリロワが棄権したので、ル・アーヴルは地方王者でもない上に不戦勝で決勝に進出した。ラ・ヴィ・オ・グランデールには、「リロワはとても過酷なシーズンを過ごした、そしてこのうえ敗北で評判に傷をつけることを恐れたのだ」と書かれた。さらに初期の大会規定では、ジェームズ・ゴードン・ベネット杯はパリから持ち出されてはならないと決められていた。USFSAはクラブ・フランセもまた「評判を落とす前に棄権する」可能性があると考え、ル・アーヴルの優勝を宣言した。彼らは1度も試合をせずに優勝したが、これがパリ以外のクラブがフランス王者になった最初のシーズンだった。 1900年度も同じく非対称トーナメントで行われ、ノール県勢同士の準決勝はル・アーヴルがUSトゥルケノワーズを下し、決勝進出。今回クラブ・フランセは決勝戦を受けて立ったが、ほとんどイギリス人選手だけで構成されたル・アーヴルが1-0で勝ち、ピッチ上で堂々とパリジャンを下して2回目の優勝を飾った。その次の1901年は同じくイギリス人クラブ同士のパリ対北部の決勝戦となり、スタンダードとル・アーヴルが対戦した。クールブヴォアでの初戦はスコアレスドローとなったため、ル・アーヴルで再試合を行った。これがパリ以外で開催された最初の決勝戦だったが、ビジター側のスタンダードが1-6で圧勝し、5回目の優勝を決めた。
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