プロジェクト34
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/12 14:59 UTC 版)
「デレック・ガードナー」の記事における「プロジェクト34」の解説
1974年、ドライバーの顔ぶれが一新し、マシンもウイングノーズが新鮮な印象の007に代わると、新エースのジョディ・シェクターがチームの地元イギリスGPで勝利するなど年間2勝を上げた。007はコンペティティブであったものの、他チームの開発ペースは速く、ティレルチームの勢いは昨年までのそれに程遠かった。この頃、ガードナーは自ら温めていた起死回生のアイデアをいよいよ実現するべく動き出していた。 ガードナーは001の設計当初から、タイヤの空気抵抗の大きさに当惑していた。かつてレースに関わるきっかけとなったフォーミュラカーの4WDの仕事の傍ら、彼はファーガソン・リサーチ社でヘリコプターやホバークラフトの図面をいくつも見ていたので、むき出しのタイヤの処遇を考え直さない限り4WDすら無駄だと思ったほどだった。そのひとつの答えが003のフロントタイヤを覆う、平滑なサーフェスを持ったスポーツカーノーズだったが、それでも足りないと感じたガードナーは、タイヤ自体を小さくしたらどうかと思案していた。しかし径を小さくするとマシンに必要なグリップが得られない。そこで彼は図面上の小さく描かれたタイヤの隣にもうひとつ、同じ小径のタイヤを並べて描き足した。6輪車が誕生した瞬間である。 この斬新を通り越した奇抜なアイデアは、プロジェクト34と名付けられ、開発は秘密裏に進行した。そして1975年9月22日、ロンドン・ヒースロー空港ホテルの発表会場に集められた報道陣は、目の前の事態をうまく把握できずに声を失った。ベールの下から現われたティレルの新型車には、前輪が4つあったからだ。 世間の嘲笑と好奇の眼差しとは裏腹に、6輪車P34は確かな戦闘力を秘めており、最初この奇をてらったアイデアに難色を示したシェクターに比べて、チームメイトのパトリック・デパイユはマシンをテストするなり好感触を得ていた。実際は空気抵抗の利点以上に、前4輪でのブレーキングがコーナーを深く攻めるのに適していたのだ。実力が知れるのに大して時間はかからず、P34は1976年シーズンのデビュー4戦目にあたるスウェーデンGPでポールポジションから初優勝を1・2フィニッシュで飾り、その後もドイツGPまでの3戦と、北米2連戦に続いて最終戦の日本でも2位に入り、この年P34が出走した13戦中8戦で2位以上に入賞、コンストラクターズタイトル3位を記録した。 しかし翌年の改良型P34は、重量配分のバランスの悪さが決定的であり、加えてタイヤ開発の滞りによるグリップ不足もレースを追う毎に深刻化した。グリップを補う前輪ワイドトレッド化や、加重を考えたノーズへのオイルクーラーの配置変更も成績を上向かせるほどの効果はなく、第16戦カナダGPの2位を最高として見せ場のないシーズンとなった。この年をもってティレルはP34での参戦を終了し、同時にガードナーはティレルチームを離脱した。
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