プリメーラ・ディビシオン挑戦
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「フェルナンド・トーレス」の記事における「プリメーラ・ディビシオン挑戦」の解説
プリメーラ初挑戦となった2002-03シーズンは調子が良く、バルセロナ戦でロベルト・ボナーノから奪った得点などで一躍話題に上る選手となり、29試合に出場して13得点を決めてチームは11位に入った 。プリメーラで2年目の2003-04シーズンは19歳で史上最年少でキャプテンに就任すると、より一層の成長を見せ、35試合に出場して19得点を挙げて得点ランキング3位に入った。このシーズンはUEFAカップ予選出場権獲得を逃したが、リーグ戦で7位に食い込んでインタートトカップ出場資格を得た。 欧州カップ戦初挑戦となった2004-05シーズンのUEFAインタートトカップ4回戦のベオグラード戦では1stレグ・2ndレグともに1得点ずつを挙げた。チームは決勝戦に進出したが、同じスペインのビジャレアルとの決勝では2試合合計2-2となって迎えたPK戦(1-3)の末に敗れた。リーグ戦では数少ないチャンスをものにし、リーグ6位の16得点を挙げた。 プレミアリーグチャンピオンのチェルシーは2005年にトーレスとの契約に興味を持っていると思われていたが、アトレティコのエンリケ・セレソ会長はチェルシーがトーレスと契約する可能性を「ノー・チャンス」と言い放った。セレソ会長は後の2006年1月に「我々はトーレスに来たオファーを検討する用意があった」と述べたが、トーレスは「ニューカッスル・ユナイテッドが3月に僕の獲得を企てていた」と主張した。2005-06シーズンは好不調の波が激しかったが、リーグ6位の13得点を挙げた。2006 ワールドカップの後、彼は大会前にチェルシーからのオファーを断ったことを明らかにした。 2006-07シーズンはPKを外すことが多かったが、リーグ戦で15得点を決め、プリメーラ・ディビシオン昇格後の5シーズン全てで2桁得点を記録した。 イギリスのメディアは彼がリヴァプールのメインターゲットとなっていると報道したが、セレソ会長は「リヴァプールを含むどのクラブや選手からもオファーは受け取っていない」と述べた。しかし、その数日後、アトレティコがトーレスをリヴァプールに移籍させる契約に同意したという新たな報道が伝えられた。その契約によると、移籍金の額は2500万ポンドと噂されており、その金額とは関係なしにルイス・ガルシアがアトレティコに移籍するというものだった。6月30日、アトレティコはビジャレアルからディエゴ・フォルランを獲得し、それはトーレスの放出を公にする前に実質的な代替要員を獲得したことを暗に示していた。7月2日、トーレスはリヴァプールとの契約を成立させるためにバカンスを途中で切り上げてマドリードに戻った。その翌日、トーレスはリヴァプールのメルウッド練習場で行われたメディカルチェックをパスした。リヴァプールとの6年契約を交わす前にアトレティコのファンに別れの挨拶をすることを希望し、7月4日にマドリードで記者会見を開いた。移籍金額はリヴァプール史上最高額だった。 オファーが届き、僕はアトレティコに耳を傾けるように言った。僕が決断した...。難しい決断だった。アトレティコの一員であることを誇りに思っている。これが“さよなら”ではなく、“また会おう”であることを願う — フェルナンド・トーレス、2007年7月4日 最大のライバルであるレアル・マドリードとのマドリードダービーでは得点できない期間が続いたが、移籍前最後のダービーとなった2006-07シーズンのホーム戦でマドリードダービー初得点を決めた。2002-03シーズンから2006-07シーズンまでのマドリードダービーの戦績は0勝4分6敗(ホームでは0勝1分4敗)であり、ついに勝ち星を挙げることができなかった。 レアル・マドリードとの対戦を不得手としている一方でバルセロナ戦での得点率が高く、バルセロナがリーグ連覇した2004-05シーズンと2005-06シーズンはホーム&アウェーの4戦全てで得点するなど、2007年4月までの計9戦で7得点を決めた。最後の対戦となった2007年5月のホーム戦では0-6で大敗し、その敗戦が移籍を決断するターニングポイントだったことを自著で認めている。
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