プリメーラB・メトロポリターナ降格
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「ラシン・クラブ」の記事における「プリメーラB・メトロポリターナ降格」の解説
メトロポリターノ1972ではウバルド・フィジョールがデビューし、このシーズンだけで6度のPK阻止を見せてPK阻止数のリーグ記録を作った。フィジョールは後にアルゼンチンの歴史上最高のキーパーのひとりに数えられるほどに成長している。このシーズンには34試合を戦って勝ち点43を獲得し、サン・ロレンソに次ぐ2位となった。1974年から1978年にかけての期間は酷い成績が続き、1976年には順位表の下から2番目で降格をかろうじて回避。1970年代はいかなるタイトルも獲得できなかった。 1981年にはスタジアムが整備不良のために閉鎖され、1983年にはプリメーラB・メトロポリターナ(当時2部)降格となった。1984年は優勝したデポルティーボ・エスパニョールに次ぐ2位となり、昇格プレーオフに出場。プレーオフではCDモロンとCAラヌースを破ったが、プレーオフ決勝でクラブ・デ・ヒムナシア・イ・エスグリマ・ラ・プラタに敗れて昇格の道が途絶えた。バシーレ監督に率いられ、創造的な中盤の選手であるミゲル・コロンバッティが牽引したチームは、1985年にも2年連続で昇格プレーオフに出場。今度の昇格プレーオフではCAアタランタに2試合合計5-1で勝利し、プリメーラ・ディビシオン復帰を決めた。
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