ブラキストンのトリニティ(1907年–1939年)
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「トリニティ・カレッジ (オックスフォード大学)」の記事における「ブラキストンのトリニティ(1907年–1939年)」の解説
ハーバート・ブラキストン(英語版)は、フェロー間での2回目の選出を経て、1907年3月17日に学寮長に選出された。ブラキストンはスカラー、チューター、シニア・チューター、内部経理部長(英: domestic bursar)などを歴任し、1898年にはカレッジの歴史を初めてまとめた本を著すなど、25年余りトリニティをほとんど離れずに過ごしてきた。ブラキストンは有能だが冷淡で、一風変わっていながら経済的には財布の紐が堅く、1931年の辞任まで内部経理部長と学寮長を兼任し、その後は1942年に亡くなるまで「長老指導者」(英: "elder statesman")として君臨した。この期間は適度な歓楽があったことで特徴付けられるほどで、定期的に酔っ払った生徒が大かがり火を焚く有様だったが、ブラキストンは中流階級の子どもたちが入学への自信をなくさないよう、生徒の退学処分をあまり行わなかった。同じ理由から、彼は在任中に非白人の生徒を1名とはいえ受け入れを認めたほか、1920年にはカレッジに女子生徒を受け入れた。これと関連して、リベラルだったベリオール・カレッジとの対立は、一時最高潮に達した。 1914年に第一次世界大戦が始まってから、トリニティの学部生の数は劇的に減少した。5月にはカレッジに150人が住んでいたが、年末までには30人に迫り、戦争終結時には一桁台にまで落ち込んでいた。ブラキストンは遺族に手紙を書き送ったが、その数はすぐに膨れあがり、中にはヴィクトリア十字章を2回受けたイギリス陸軍のノエル・ゴドフリー・シャバス(英語版)(1917年没)の家族もいた。学費を払う生徒はほんのわずかで、カレッジの財政は傾き、ブラキストンをはじめとした多くのスタッフが給料を大きく減額した。武装隊のために接収された部屋からの収入は、カレッジの長期展望を可能にし、新入居者のために新設された浴室はほとんどただで建設された。多くの生徒がカレッジを去ったのに続き、フェローも軍に奉仕するとして数人が立ち去った。必然的に、ブラキストンもカレッジや大学全体のためにより多くの管理職業務を強いられるようになり、1917年から1920年までは大学の総長 (en) も務めた。それでも彼は「カレッジ・マン」(英: "a college man")としての自分を貫き、大学全体の仕事をしていた期間は、その多くがトリニティの独立を守ることに捧げられた。 トリニティ全体では、820名の生徒・卒業生が軍へ奉仕し、153人が戦死した。それでもなお、平和によりトリニティは再興し、2年以内に戦争前の生徒以上の数が戻ってきた。ブラキストンは1919年に、戦死者を悼むモニュメントの設置に乗りだし、新しい図書館を作るという提案は受け入れられた。新図書館は1928年に開館したが、建築資金の多くは寄付金で賄われた。ブラキストンは自ら設計に乗り出したが、華麗なエントランス通路は住居用新区画が隣接して建てられた際に取り除かれた。しかしながら、中流階級の多いトリニティは、この時期を通して学業よりもスポーツの方で知られた(フェローのシリル・ヒンシェルウッドによる研究が数少ない例外である)。他にも大聖堂の修復、コテージ(現ステアケース1)の改装、新浴室の建設などが行われた。
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