ブラウンズの移転
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「1953年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ブラウンズの移転」の解説
一方、承認を受けられなかったセントルイス・ブラウンズのビル・ベックは、この年もグラウンドの内外で不振であった。夏にホームグラウンドのスポーツマンパークをカージナルスに80万ドルで売り、以降は年間17万5,000ドルでの賃貸料を支払うことを約するとともに、抜け目なくセントルイスを離れる場合はカージナルスから30万ドルの立ち退き料を受け取るという念書を取り交わした。その後にロサンゼルスやサンフランシスコへの移転を画策したが、両都市にフランチャイズを持つAAA級パシフィックコーストリーグの強い反対で動けず、9月に再度ボルチモアへの移転の申請をリーグに提出して、9月27日のオーナー会議が注目されたが投票結果は3対4で否決された。これは一部のオーナーがベックを敵視した結果とされて、万事休したベックはその2日後の9月29日にボルチモアの財界人グループに247万5,000ドルでチームを売却した。ブラウンズはこれが最後の年になると多くのファンが見ていたので年間観客動員数29万7,238人を記録したが結局70万6,998ドルの赤字であった。しかしベックが球団経営から手を引いたので、アメリカンリーグのオーナーは態度を軟化し、球団のフランチャイズ移転を認めた。この球団の新しい経営陣はすぐにボルチモアを本拠地とするAAA級インターナショナルリーグの球団のフランチャイズ権を35万ドルで買い上げて、かつインターナショナルリーグに4万8,749ドルを支払った。 1901年のアメリカンリーグ創設の時に初代会長バン・ジョンソンがジョン・マグローを引き入れて発足したボルチモア・オリオールズをジョンソンが強引にニューヨークへの移転を行い(これでマグローと決別した)、1902年限りでメジャーリーグの本拠地を失って以来、ここにボルチモアは52年ぶりにメジャーリーグの本拠地となった。この1901~1902年のボルチモア・オリオールズがニューヨークに移転後にニューヨーク・ハイランダースと改称し、やがて1913年にニューヨーク・ヤンキースとなった。 そしてこの1953年にセントルイス・ブラウンズに入り、翌年はボルチモア・オリオールズでプレーした投手がその次の年にヤンキースに入団した。2年間でわずか10勝しかしておらず、オリオールズの2年目は3勝21敗で最多敗北投手であった。しかしこの投手をステンゲル監督はトレードで取った。後にメジャー通算で14年在籍して81勝91敗で10勝以上挙げたシーズンはわずか2回だけであったが、しかしやがてこの投手は「メジャーリーグ史上最もエキサイティングな出来事」の主人公として、メジャーリーグの歴史に残ることになった。この投手がドン・ラーセンである。彼がこの歴史的な場面を演出するのは3年後の1956年10月8日である。
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