ブラウンシュヴァイクの宣言とは? わかりやすく解説

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ブラウンシュヴァイクの宣言

(ブラウンシュヴァイク・マニフェスト から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/22 14:07 UTC 版)

ブラウンシュヴァイクの宣言書で、尻を拭き、タバコに火を付ける人々

ブラウンシュヴァイクの宣言: Manifeste de Brunswick, : Manifest des Herzogs von Braunschweig, : Brunswick Manifesto)は、フランス革命戦争中の1792年7月25日に同盟軍司令官ブラウンシュヴァイク公爵が発した宣言である。パリ市民が国王ルイ16世に少しでも危害を加えればパリ市の全面破壊も辞さないという内容の脅迫であったが、より一層市民を怒らせ、敵に守護される国王の廃位要求に彼らをかき立てる結果になった。

英語の読みにより、ブランズウィックの宣言とも言う。

概要

ジロンド派が提案し、外国軍によって革命を潰そうとする国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットも同意したため始まったフランス革命戦争は、既に指揮官層が亡命していたことや、ルイ16世が亡命者や外国政府と連絡を取りフランス軍の動きや作戦を通報していたこともあり、敗戦と退却が続いていた。

1792年5月27日、議会は小群で能動的市民20名の要請があれば非宣誓聖職者を国外追放にできるという趣旨の法令を採択する。戦争対策の一環として、国内の騒乱要因を取り除こうとしたのだった。また6月8日、先刻から2万人の連盟兵を徴募して、パリに駐屯させる旨の法令も採択される。これにより、パリに配備されていた軍隊およびパリに集まっていた志願兵を前線に送ることが可能とする意図があった。

6月11日、ルイ16世は2つの法令に対して拒否権を行使する。内務大臣ロランはこれに抗議したが、翌日になると国王はロランをはじめとするジロンド派大臣を罷免し、13日フイヤン派の人物を大臣に指名した。

6月20日、ルイ16世の対応を不満とするパリのサン・キュロットが蜂起をし、議会の議場を行進した上でテュイルリー宮殿に押し寄せた。彼らの要求はルイ16世が行使した拒否権の撤回とジロンド派大臣の呼び戻しだった。侵入した民兵は午後2時から10時まで国王の居室にとどまった。民衆の要求に従って赤いフリジア帽を被らされたルイ16世は民衆と共にワインで乾杯したが、拒否権は放棄せずに、頑として譲歩を拒んだ。結局、民衆はなんの成果も得られないまま市長ペティヨンの介入によってようやく解散した。

王子らと共に議会議場に避難を強いられた王妃は大変怯えて、オーストリアの駐仏大使メルシー=アルジェントー伯爵[1]に手紙を書き、彼を介して、ブラウンシュヴァイク公爵に同盟軍が何らかの声明を発して山岳派を脅迫し、恐怖に震え上がらせてやるように懇願した。公爵はあまり効果があるとは思えなかったので乗り気ではなかったが、メルシー大使の根気強い説得にまけ、7月25日コブレンツで同宣言を発表した。

宣言の内容は、まず革命政府によるオーストリアとプロイセンに対する侵略を非難し、続いてフランス国王の自由と権力が回復されるべき事を主張した上で、両国はやむを得ない状況によって戦争に引き込まれたもので、自国の利益のためフランスを征服するわけではないこと、また両国はフランスの内政に干渉する意図はいささかもなく、フランス国王一家を救出し、フランス国王が統治を行うのに必要な安全を確保するために協力すること以外は望んでおらず、フランス国王に服従し、同盟軍に対し戦闘行動をとらないすべてのフランス人の生命および財産は保護されるとする一方、立法議会とすべての行政関係者およびパリ国民衛兵のメンバーは容赦なく軍法会議にかけられるものとし、さらにもし王宮が襲撃され、フランス国王とその家族に重大な侮辱もしくは危害が加えられたならば、同盟軍は見せしめとしてパリを全面的に破壊し、叛徒どもにしかるべき刑罰を与えるとするものであり、続いて7月27日には国王一家が万一パリ市民によってパリ以外の地に連行されるなら、その通過を妨げないすべての土地および都市はパリと同様の運命に見舞われるとする追加宣言が発表された[2]

この宣言は7月28日頃にパリに届き、8月1日までの間に市民のあらゆる階層を激怒させた。フランスの国王は敵国の司令官に守られる存在であることが明らかになり、祖国を救うには王政を打倒しなければならないという認識が広まった。すでに高まっていた不満が一気に爆発して後戻りできないところまできて、48地区のうちで47地区[3]が国王廃位に賛成の署名をするに至る。これら一連の動きが8月10日事件の民衆蜂起が起こる直接の引き金となった。ルイ16世が外患誘致を行っていた文書は本人の裁判にあたり有罪を決定づける証拠となった。

脚注・出典

  1. ^ フロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジェントー伯爵(Florimond Claude, Comte de Mercy-Argenteau
  2. ^ 「資料 フランス革命」p193-198にこれらの宣言の邦訳が収録されている(田中正人訳)
  3. ^ 残りの1地区はフィユ・サン=トマ地区という王党派の支配する地区で、この地区は1795年ヴァンデミエールの反乱でも王党派として活動した筋金入り。8月10日事件でもパリで唯一、国王のために戦った

参考文献

関連項目





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