フランス語国語論
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1946年(昭和21年)、直哉は『改造』4月号に「国語問題」というエッセイを発表する。 直哉は40年近い文筆生活の中で、日本の国語が不完全であると痛感したとして「日本は思ひ切って世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、その儘、国語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。」と提言する。直哉はフランス語を話せなかったが「文化の進んだ国であり、小説を読んでみても何か日本と通ずるものがあると思はれる」という根拠でフランス語を推した。日本語の文章においては随一の作家であると評価されていた直哉のこの意見に、読者は戸惑い議論となった。 直哉の門人である河盛好蔵や辰野隆は「失言」ととらえており、他の門人たちも特に触れた文章を残していない。阿川弘之の調査によれば、エッセイ発表後、学者や文人が反論した文章はほとんど見つからないという。福田恆存・土屋道雄による『國語問題論爭史』(1962年、新潮社)では、直哉のフランス語国語論は世間の注目を浴びたが、真面目に受け取られることなく流されてしまったと書いている。大野晋は若い頃から志賀直哉の作品を愛読しており、「小説の神様」が日本語を見捨てようとしたことに大変ショックを受けたが公に反論を書いてはいない。大野は『日本古典文学大系』の編集担当だった直哉の息子・直吉に直哉の発言の真意を問いただしたところ、直吉は、日本の文学が読まれない、わかってもらえないのは日本語が特殊なせいで、フランス語のような国際語で書かれていればという考えがあったのではないかと答えたという。 批判者の代表として丸谷才一、三島由紀夫を挙げることができる。これに対して蓮實重彦は『反=日本語論』や『表層批評宣言』などにおいて直哉を擁護した。 戦後、直哉が閉口していたのは原稿を当用漢字や現代仮名遣いに修正されることで「原文のまま載せてくれない新聞雑誌には書かぬことにする」(展望、1950年3月号)と宣言している。
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