フランスにおけるコンフェッショナリズムの展開
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「フランスにおけるコンフェッショナリズムの展開」の解説
「コンフェッショナリズム」および「ユグノー」も参照 「コンフェッショナリズム」とは本来、キリスト教のプロテスタント諸会派において、信仰無差別論に対して自身の信仰や教義の防衛義務を主張する立場を指していたが、やがて「宗教上の信条的対立が政治闘争の形をとる状態」を指し示す用語となった。特に中世において普遍宗教とされたカトリック教会が16世紀以降の宗教改革によって教会分裂を余儀なくされ、それにともなう抗争が激化した16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパの政治状況を指している。 上述したように、ドイツやスイスでは宗教改革の帰結として宗教戦争が起こり、16世紀のドイツでは騎士戦争(1522年-1523年)、ドイツ農民戦争(1524年-1525年)、ミュンスターの反乱(1534年)、シュマルカルデン戦争(1546年-1547年)、第二次辺境伯戦争(1552年-1555年)など一連の宗教戦争の結果、各領邦で国教制度をとる領邦教会制度が成立したが、17世紀の大規模な宗教戦争となった三十年戦争(詳細は後述)はヨーロッパ各国を巻き込んで長期化し、ここでは再びドイツが主戦場となって大きな損害を被った。宗教改革にともなう教会分裂によって神聖ローマ帝国はしだいに衰退し、主権的国家が登場したことによって政治の世俗化が方向づけられた。イギリスでは16世紀にイングランド国教会が成立し、17世紀には清教徒革命(1641年-1649年)が起こった。イスパニアは対抗宗教改革の拠点となり、そこではウルトラモンタニズム(教皇中心主義)が採られた。そのイスパニアの支配から逃れようとしたのが、ネーデルラント(オランダ)である。ネーデルラントではカルヴィニズムが社会をリードし、イスパニアへの抵抗は経済的要因も含んで長期化した。これが八十年戦争(1568年-1648年)である。 こうしたなか、フランスはコンフェッショナリズムの激突が最も典型的におこった国である。フランスはカトリック信仰の強い国であったが、カルヴァンの祖国でもあり、宗教改革においてはカルヴァン派が主流であった。カルヴァン派は「ユグノー」と呼ばれ、カトリック教会から弾圧を受けた。16世紀後葉のフランスではユグノー戦争(1562年-1598年)という内戦が起こり、そのなかからカトリックに対抗するカルヴァン派の抵抗権理論が発展して「モナルコマキ」を主張する暴君放伐論者が現れ、一方では主として知識人のなかから宗教的寛容を説く思潮が生まれた。 歴史的には、ユグノー、フランス王権、カトリック勢力の三者間の政治闘争を通じ、フランス絶対王政が形成されていった。
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