フランスにおけるトルコ学
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「トルコ学」の記事における「フランスにおけるトルコ学」の解説
トルコ学者で歴史家のジル・ヴェンステイ(フランス語版) によれば、フランスのトルコ学の起源は16世紀に遡る。当時のトルコは最強の軍事力を有していた。1538年、学識に優れ多言語をマスターしたギョーム・ポステル(フランス語版)は「王の教授(後のコレージュ・ド・フランス)」で最初の東洋言語の教授となった(ギリシャ語、ヘブライ語、アラビア語をマスター)。彼はトルコにも興味を持っていた。彼は2回、オスマン帝国を訪れた。一度目は1535年で、このときはフランソワ1世の派遣した大使、ジャン・デ・ラ・フォーレ(フランス語版)に同行した。その後1549年にも訪問し、その後、彼はトルコで目にしたことをまとめてDe la République des Turcs(1560年)と題した本を書いた。言語への情熱から彼はトルコ語を学び、本の1575年版には、11ページ分のトルコ語-フランス語-ラテン語の辞書と、9ページ分の文法に関する覚え書きを追加した。この種の物としては、16世紀にフランス語で書かれた物としては唯一だった 。 西ヨーロッパの国々では17世紀半ばからトルコ語の文書が蓄積されはじめた。理由は主に実践的なもの(外交だったり、キリスト教世界を守るためだったり、18世紀に南フランスのマルセイユを経由する東地中海貿易が繁栄していた)だった。特にフランス、ヴェネツィア、ハプスブルク帝国、ポーランドなどでは、トリセマ(仏: truchements)またはドラゴマン(英語版)と呼ばれるトルコ語の通訳が養成されていた。これらの翻訳者は、理想的にはトルコ語だけでなく、アラビア語とペルシア語も理解する必要があった。これらはすべてオスマン帝国の影響下にある地域で話されていた。 1551年、イスタンブールに伊: Scuola dei Giovani di Linguaという学校が設立された。直訳すれば「若者の言語学校」であり、通訳見習いを養成するものだった(学校名はトルコ語: dil oğlanıをイタリア語: giovani di linguaに直訳したものだった)。1669年、コルベールはイスタンブールにフランス学校を設立し、1700年からフランス王国は若手の東洋学者をパリ(リセ・ルイ=ル=グラン)に招くようになった。
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