フランスにおけるダンディズム
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「ダンディ」の記事における「フランスにおけるダンディズム」の解説
フランスにおけるダンディズムはフランス革命と政治的に結びついている。ダンディズムの最初期段階にあたる jeunesse dorée (「金持ちの道楽息子たち」の意。ミュスカダン(英語版)とも)は旧体制支持という政治的表明のため貴族風の服装をまとい、サン・キュロット(革命派の支持母体である貧困層)とみずからを区別した。 ボー・ブランメルの全盛期にはファッションと作法に対するその強権は絶対的なものであった。ブランメルの服装やスタイルはしきりに模倣され、ことにフランスでは盛んだったが、フランスでの成り行きは英国とは多少異なっており、ブランメルの模倣は上位中産階級だけでなくモンマルトルやモンパルナスに集う作家や芸術家連にも行われた。彼らにとってダンディは、意識的に自己を作りあげ、伝統とはっきり断絶したとして、革命的価値観からの祝福の対象でもあった。服装の入念さとデカダン的生活様式をもってすれば、ブルジョワ社会に対して軽蔑と優位を示せることがこうしたフランスのダンディたちには理解されていた。19世紀後半にはフランスのダンディズムは文学における象徴主義にも大きな影響を与えることとなった[要出典]。 ボードレールはダンディズムにいたく関心があり、記念碑的な文章を物している。すなわち、ダンディを志す者は「エレガントであること以外に職業を持つ」べきでなく、また「めいめいにおける美の観念の追求以外のいかなる状態」もふさわしくなく、「ダンディは絶えず卓越を切望しなければならない。ダンディは鏡の前に生き、死なねばならない」。ほかにもフランスの知識人はパリの通りをうろつくダンディに関心を寄せており、バルベー・ドールヴィイは『ダンディズムとジョージ・ブランメルに関して』という伝記的考察で、ボー・ブランメルの行き方を詳細に吟味している。
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