ビートルズ・ファン・クラブ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/29 15:22 UTC 版)
ビートルズ・ファン・クラブは、1965年1月から1972年3月まで活動していた日本におけるビートルズの公認ファン・クラブである。略称はBFC。なお、現在の日本における公認ファン・クラブ、ザ・ビートルズ・クラブ(略称BCC)と直接的な関係はない。
注釈
- ^ 1965年6月から会員証発行費用として100円を徴収することになった[1]。
- ^ 午前中2回のみの限定上映。午後からはロードショー公開中のアメリカ映画『暴行』の通常上映だった[2]。
- ^ 第3号より『BFCレポート』となる。
- ^ それまでは、1965年3月に当時専門学校生だった竹内映が主宰する「レッツ・ゴー・ビートルズ(LGB)」が公認を受けていた[3]。
- ^ 1966年8月末を以ってコンサート活動を停止してしまったため、グループとしての活動情報が激減していた。
- ^ 松竹セントラルにあったBFC事務局は、前年12月31日に閉鎖していた[5]。
- ^ 下山は会長として残り、秘書だった国際部の畑皎子を含めた5人体制となった[6]。
- ^ 1970年4月10日、マッカートニーがグループを脱退する意向であることがイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』で報じられた。これはアルバム『マッカートニー』のリリース前にプレス向けに配付された、マッカートニー自身が用意した資料に基づいた記事であった。一問一答形式の資料の中には「今後ビートルズのメンバーと創作活動をすることはない」とあり、マスコミから「脱退宣言」だと受け取られた[10][11]。
- ^ ビートルズ・シネ・クラブは1969年2月より会報『The Beatles』を冊子化し、8月からは毎年『全国5都市縦断ビートルズ・フェスティバル』を開催していた。
- ^ 代表のフリーダ・ケリーがアップル本社を訪れ、ジョージ・ハリスンとリンゴ・スターが同席する会議に出席。クラブの仕事を続けられないことを表明すると、ハリスンが活動終了を宣言した[12]。
- ^ 第14号の発行については不明[14]。
出典
- ^ 大村亨 2022, p. 99-103,115-117.
- ^ 大村亨 2022, p. 29.
- ^ 大村亨 2022, p. 59-65.
- ^ 大村亨 2022, p. 164.
- ^ 大村亨 2022, p. 193.
- ^ 大村亨 2022, p. 35-36.
- ^ 大村亨 2022, p. 203.
- ^ 大村亨 2022, p. 236-240.
- ^ a b 大村亨 2022, p. 38.
- ^ ビートルズと60年代 1996, pp. 394–395.
- ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 2000, pp. 350–352.
- ^ 大村亨 2022, p. 298-299.
- ^ 大村亨 2022, p. 302-305.
- ^ 大村亨 2022, p. 189.
- 1 ビートルズ・ファン・クラブとは
- 2 ビートルズ・ファン・クラブの概要
- 3 解説
- 4 沿革
- 5 主な活動内容
- ビートルズ・ファン・クラブのページへのリンク