パイオニア戦志時代とは? わかりやすく解説

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パイオニア戦志時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 21:03 UTC 版)

剛竜馬」の記事における「パイオニア戦志時代」の解説

新間寿・寿恒親子の『世界格闘技連合構想に主要メンバーとして当初大仁田厚らと名が挙がっていたが、新団体旗揚げ計画した高杉から声を掛けられ、やはり全日本リストラ組で元同僚菅原加えて1988年11月15日アニマル浜口ジムで『パイオニア戦志』の設立発表団体名菊池孝発案である。この団体は、1966年から短期間活動して消えた東京プロレス』に続く日本2番目かつ20数年振りインディー団体で、大仁田FMWより半年早かった。 剛自身パイオニア戦志設立発案者ではなかったが、旧知藤波との関係を生かしリング調達会場確保新日本プロレス協力得たことや、それまで実績考慮され団体エースの座に就くことになった千葉県浦安市道場合宿所パイオニアGYMぽぱい』を確保しプロレス志願者養成にも注力。翌1989年4月30日に、大仁田対剛のシングル対決メインイベントとして行った旗揚げ戦は、藤波北尾光司らを来賓招き物珍しさもあって後楽園ホールをほぼ満員にしたが、藤波試合内容酷評された。 半年後の10月の第2戦に菅原の姿は無く(剛の姿勢不信感抱いたことから離脱)、新倉史祐代役務め、更にメイン青柳政司戦では、当日カード変更両者レフェリーストップ裁定に客が暴動寸前になり、激怒した立会人浜口が剛と青柳控室からリング引きずり戻し往復ビンタして試合再開させる珍事まで起きた。剛は「(青柳後頭部を)蹴られたら、目ん玉が飛び出したから手で押し戻したよ」と語りその後飛蚊症悩まされるうになる1990年からは『パイオニア軍団』の名で青柳栗栖正伸らと共闘新日へ再参戦5月4日緒戦(剛&高杉長州&佐々木健介)では勝利したが、練習不足で主に高杉試合中グロッキーになる場面目立ちまたもや藤波内容酷評されマッチメーカー長州からも冷遇された。 10月移動中の交通事故乗り越えて12月にはヘビー級転向後の藤波念願シングル再戦博多スターレーン敗者追放マッチ)に漕ぎ着けた週刊ゴング直前インタビューで剛は「俺にはプロレスしかないから。プロレス無しでは生きて行けないプロレス馬鹿ですよ」と語っていた。しかし、藤波のジャンピング・エルボー・バットに沈み生中継実況した辻義就に「プロレスバカというよりもプロレスカバですね」と蔑まれた。藤波戦敗退、新日本との業務提携終了をもってパイオニア戦志活動休止した。

※この「パイオニア戦志時代」の解説は、「剛竜馬」の解説の一部です。
「パイオニア戦志時代」を含む「剛竜馬」の記事については、「剛竜馬」の概要を参照ください。

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