パイオニア戦志時代
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新間寿・寿恒親子の『世界格闘技連合』構想に主要メンバーとして当初大仁田厚らと名が挙がっていたが、新団体旗揚げを計画した高杉から声を掛けられ、やはり全日本リストラ組で元同僚の菅原を加えて1988年11月15日にアニマル浜口ジムで『パイオニア戦志』の設立を発表。団体名は菊池孝の発案である。この団体は、1966年から短期間活動して消えた『東京プロレス』に続く日本で2番目かつ20数年振りのインディー団体で、大仁田のFMWより半年早かった。 剛自身はパイオニア戦志設立の発案者ではなかったが、旧知の藤波との関係を生かしリング調達や会場確保に新日本プロレスの協力を得たことや、それまでの実績を考慮され、団体のエースの座に就くことになった。 千葉県の浦安市に道場兼合宿所『パイオニアGYMぽぱい』を確保し、プロレス志願者の養成にも注力。翌1989年4月30日に、大仁田対剛のシングル対決をメインイベントとして行った旗揚げ戦は、藤波や北尾光司らを来賓に招き、物珍しさもあって後楽園ホールをほぼ満員にしたが、藤波に試合内容を酷評された。 半年後の10月の第2戦に菅原の姿は無く(剛の姿勢に不信感を抱いたことから離脱)、新倉史祐が代役を務め、更にメインの青柳政司戦では、当日のカード変更や両者レフェリーストップの裁定に客が暴動寸前になり、激怒した立会人の浜口が剛と青柳を控室からリングに引きずり戻し、往復ビンタして試合再開させる珍事まで起きた。剛は「(青柳に後頭部を)蹴られたら、目ん玉が飛び出したから手で押し戻したよ」と語り、その後飛蚊症に悩まされるようになる。 1990年からは『パイオニア軍団』の名で青柳、栗栖正伸らと共闘し新日へ再参戦。5月4日の緒戦(剛&高杉対長州&佐々木健介)では勝利したが、練習不足で主に高杉が試合中にグロッキーになる場面も目立ち、またもや藤波に内容を酷評され、マッチメーカーの長州からも冷遇された。 10月の移動中の交通事故を乗り越えて、12月にはヘビー級転向後の藤波と念願のシングル再戦(博多スターレーン、敗者追放マッチ)に漕ぎ着けた。週刊ゴングの直前インタビューで剛は「俺にはプロレスしかないから。プロレス無しでは生きて行けない、プロレス馬鹿ですよ」と語っていた。しかし、藤波のジャンピング・エルボー・バットに沈み、生中継を実況した辻義就に「プロレスバカというよりもプロレスカバですね」と蔑まれた。藤波戦敗退、新日本との業務提携終了をもって、パイオニア戦志は活動休止した。
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