バーゴインの遠征開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:43 UTC 版)
「サラトガ方面作戦」の記事における「バーゴインの遠征開始」の解説
バーゴイン軍の大半は1776年春にケベックに到着し、植民地内から大陸軍部隊を駆逐する動きに参加した。ケベックに集まった部隊は、イギリス正規軍に加えてドイツのフリードリヒ・アドルフ・リーデゼル男爵が指揮するヘッセン=ハーナウ侯国(その名前からヘシアンという通称が生まれた)およびブラウンシュヴァイク公国から数個連隊が入っていた。これらの正規軍の中から、イギリス兵200名とドイツ兵300ないし400名がセントリージャーのモホーク渓谷遠征隊に宛てられ、約3,500名は植民地防衛のためにケベックに残された。その残りがバーゴインのオールバニに向けた作戦に宛てられた。正規軍はケベックで徴集される2,000名ほどの民兵で補強されると考えられた。しかし、カールトンは6月までにわずかに小さな3個中隊を立ち上げただけだった。バーゴインはおよそ1,000名のインディアンが遠征隊を支援すると期待してもいた。約500名がモントリオールとクラウンポイントの間で合流した。 バーゴイン軍はケベックを離れる前に兵站の問題でも悩まされた。明らかにバーゴインもカールトンも予測していなかったことだった。この遠征は大半が水路を行くことを想定しており、経路にある陸地を行く為に、大量の装備や物資を運ぶ荷車や馬など牽引用動物の数が少なかった。6月初めになってやっとカールトンは軍隊を動かす為に十分は荷車を発注する命令を出した。その結果、荷車は生木を使ってお粗末に作られ、逃亡の恐れが高い市民によって曳いて行かれることになった。 バーゴインとカールトンは1777年6月13日に、シャンプレーン湖の真北にあるリシュリュー川沿いのセントジョンズで集結した軍隊を観閲し、バーゴインは儀式的に指揮権を渡された。昨年に建造された5隻の帆船に加えて6隻目を造り、前年のバルカー島の戦いでベネディクト・アーノルドから3隻を奪っていた。これらは幾らか輸送の役に立つことに加え、湖上を南に軍隊を動かす大輸送船団を護衛する役割もあった。 翌日進発したバーゴインの軍勢には7,000名の正規兵と軽迫撃砲から24ポンド (11 kg) 砲までの大砲が130門以上あった。正規兵はサイモン・フレーザー准将が指揮する前衛隊と2個師団に組織された。ウィリアム・フィリップ少将のイギリス正規軍3,900名を右翼に、もう1つはリーデゼル男爵のブラウンシュヴァイク公国およびヘッセン=ハーナウ侯国兵3,100名を左翼に置いた。正規軍は十分な装備で出発したが、そのうちの特にドイツの竜騎兵は荒地での戦闘への準備が不足していた。 セントリージャー大佐の遠征隊も6月半ばに集結した。その部隊はイギリス正規兵、ロイヤリスト、ドイツ人傭兵およびインディアン部隊からのレンジャーズの混合中隊、約750名で構成され、6月23日にモントリオールに近いラシーンを進発した。
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