バルビゾン移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 07:55 UTC 版)
「ジャン=フランソワ・ミレー」の記事における「バルビゾン移住」の解説
1849年1月か2月、第3子で長男のフランソワが生まれた。ところが、6月、パリではコレラが大流行し、上下水道の不備や不潔な安宿のため、貧困地区を中心に2万人近くの死者が出た。また、同じ時期、ルイ・ナポレオン大統領によるローマ侵攻に抗議する暴動が起きて武力鎮圧され、ルドリュ=ロランをはじめとする左派の議員が一掃された。これによって、ミレーは政治的支援者を失うことになった。そうした中、ミレーは、シャルル・ジャックの誘いを受けて、一緒にバルビゾンの村に移住することにした。政府注文で得た報酬がその資金となった。 バルビゾンは、フォンテーヌブローの森の入口に当たり、1820年代からジャン=バティスト・カミーユ・コローが写生に訪れるようになり、1830年代からはテオドール・ルソー、ディアズ・ド・ラ・ペーニャ、1840年代にはコンスタン・トロワイヨンやシャルル=フランソワ・ドービニーが滞在するようになった。彼らの拠点は、1824年にフランソワ・ガンヌが開業した「ガンヌの宿」であった。ミレーとシャルル・ジャックも、当初、ガンヌの宿に滞在したが、その後、家を借りた。6月28日、サンシエに、次のような手紙を送っている。 ジャックと私は、しばらく当地に滞在することに決めた。2人とも結局家を借りてしまった。物価はパリに比べれば極めて安く、パリに出ようと思えば、大した時間もかからず行ける。とりわけここの風景は素晴らしい。パリにいるよりもずっと静かに制作に打ち込めるだろうし、もっと良いものが描けると思う。要するにここにしばらく暮らしてみたいのだ。 1850年10月、第4子(三女)マルグリットが生まれた。同年末から1851年にかけてのサロンに、『藁を束ねる人』と、代表作となる『種まく人』を提出し、入選した。『種まく人』は、農民の悲惨な生活に抗議する政治的な表明ととらえる人も多く、激しい議論を呼んだ。当時のフランスは、2月革命や普通選挙の実施によって政治的発言力を増した農民・労働者階級と、その脅威を抑え込もうとするブルジョワ階級との対立が高まっており、それを反映して、『種まく人』は、保守派からは「ミレー氏は……農民と呼ばれる悪党と同種の輩である」などと非難を浴びる一方で、左派からは、「彼は現代の民衆(デモス)の擬人像である」などと持ち上げられた。また、この作品を支持したテオフィル・ゴーティエが「乱暴な身振りと、ひどく粗末ななりをしたこの人物は、種をまく土の色で塗られているかに見える」と指摘したとおり、アカデミックな技法では嫌われる絵具の厚塗りを行っており、その点でも革新的であった。同じ年のサロンでは、ギュスターヴ・クールベの『オルナンの埋葬』もスキャンダルになっており、2月革命後のフランスで、貧富の格差、都会と田舎の格差に対する意識が高まっていたことを示している。そうした中、政治や社会の現実を描くミレーやクールベ、ドーミエといったレアリスムの画家が現れたことは、美術史上の革命といえる。 ミレーは、1851年頃、サンシエへの手紙で、「結局、農民画が私の気質に合っている。社会主義者とのレッテルを貼られることがあったにしても、芸術で、最も私の心を動かすのは何よりも人間的な側面なのだ。」と書いている。 『種まく人』1850年。油彩、キャンバス、101.6 × 82.6 cm。ボストン美術館。1850-51年サロン入選作か。 『藁を束ねる人』1850年。油彩、キャンバス、56 × 65 cm。ルーヴル美術館。1850-51年サロン入選。
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