バッファロー・ビルズ・ワイルド・ウエスト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 19:49 UTC 版)
「ワイルド・ウエスト・ショー」の記事における「バッファロー・ビルズ・ワイルド・ウエスト」の解説
詳細は「バッファロー・ビル」を参照 1883年、ネブラスカ州ノースプラットにおいて、バッファロー・ビル自身の実生活を屋外西部劇に投影した「バッファロー・ビルズ・ワイルド・ウエスト」が創立された。アリゾナ・ジョン・バークが広報として雇われ、セレブリティによる宣伝、プレスキット、売名行為、劇評、看板、特許など当時の最新の宣伝方法を駆使し、人気獲得に貢献した。 1887年から1892年の間に4回、1902年から1906年の間に4回の計8回、「バッファロー・ビルズ・ワイルド・ウエスト」欧州公演が行われた。1887年の第1回欧州公演はヴィクトリア女王即位50周年ゴールデン・ジュビリーのアメリカの出し物の一環としての上演であった。当時皇太子であったエドワード7世は事前にプライベートで観劇し、ヴィクトリア女王の御前公演にふさわしいと判断した。女王はこの公演および出演者との会話を満喫し、1887年6月20日にゴールデン・ジュビリーの来客のために再度の御前公演を設定した。のちのヴィルヘルム2世、ジョージ5世ほかヨーロッパ全土の皇族が観劇した。1887年10月、チケット売り上げ250万枚、300回上演後に好評のロンドン公演が閉幕した。バーミングハム、マンチェスターを巡業し、1888年5月、アメリカに戻り短期間の夏公演を開催した。1891年から1892年、再度ヨーロッパに渡り、カーディフ、ウェールズ、グラスゴー、スコットランドなどを巡業した。 1893年、コーディは題名を「Buffalo Bill's Wild West and Congress of Rough Riders of the World 」に変更し、18,000名が来場するシカゴ万国博覧会で上演した。この公演は大いに成功したが、再演されることはなかった。同年、万博においてウィスコンシン大学のフレデリック・ターナー教授はアメリカの歴史の第一段階を終えたとして「開拓時代は終了した」と語った。 1902年12月、14週の欧州公演において「バッファロー・ビルズ・ワイルド・ウエスト」を再演し、エドワード7世およびのちのジョージ5世が観劇した。1902年から1903年、および1904年でグレートブリテンのほぼ全市を巡業した。1905年4月、パリにて2ヶ月間の巡業が開幕し、12月までフランス周辺を巡業した。1906年3月4日、最後の巡業がフランスで開幕し、2ヶ月間のイタリア巡業が行われた。続いて東に向かい、オーストリア、バルカン半島、ハンガリー、ルーマニア、ウクライナを巡業し、西に戻りポーランド、ボヘミア(のちのチェコ)、ドイツ、ベルギーを巡業した。 1894年頃、厳しい不況によりチケット売り上げが落ちていった。綿花の水害や不景気で南部を巡業することが困難となり、バッファロー・ビルは財政難の瀬戸際となった。その直後、財政立て直しをはかり、騙されてショーの売却、いち従業員への格下げ、セルズ・フロト・サーカスの出し物のひとつとなってしまった。以降、衰退の一途をたどり、1913年、破産宣告となった。
※この「バッファロー・ビルズ・ワイルド・ウエスト」の解説は、「ワイルド・ウエスト・ショー」の解説の一部です。
「バッファロー・ビルズ・ワイルド・ウエスト」を含む「ワイルド・ウエスト・ショー」の記事については、「ワイルド・ウエスト・ショー」の概要を参照ください。
- バッファロー・ビルズ・ワイルド・ウエストのページへのリンク