バサーストのトリニティ(1664年–1704年)
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「トリニティ・カレッジ (オックスフォード大学)」の記事における「バサーストのトリニティ(1664年–1704年)」の解説
バサーストの計画は30年にわたって実行されたが、建設後すぐに構造が脆くなっていた15世紀初頭の大聖堂や、談話室 (common room) として使われていたオールド・バーサリー(英: the Old Bursary、旧会計課の意味)など、多くの建物が建て替えられた。古い台所は1681年に交換され、学寮長公舎も改装された。2つのローンを組んで1694年4月に完成した大聖堂は、ピョートル1世のオックスフォード訪問中に唯一完成していた建物だが、彼がこの大聖堂に足を踏み入れたかどうかは記録が定かでない。また華麗な大聖堂の最終設計と同じように、クリストファー・レンが担当して独立した建物がひとつ建設され、これが中庭を囲んで現存する建物(英: the college's "Garden" quadrangle)の北側部分となった。卒業生やフェローから1,500ポンド(2019年時点の£259,400と同等)の建設費用を集め、新区画は1668年までに使用が可能になり、また入居者によって内装調度品が次第に充実していった。バサーストはキャンパスの拡充をさらに追求し、1682年から1684年に現存する中庭の西側にあたる独立区画を建設し、19世紀遅くには、この建物にエポニムとして「バサースト棟」(英: "Bathurst building")との名前が付けられた。 バサーストが望んだ通り、彼の計画でトリニティには、規模の拡大と収入の増大がもたらされ、1680年代までには再び100名以上の学生を抱えるまでになった。この成長は特に、イングランド中産階級の子どもたちによって支えられており、彼らは自分たちの富を示すのに、オックスフォードで1番学費のかかるカレッジに入学するのが手っ取り早いと考えた。もっとも学寮費の順位は次第に廃れていったが、それでもトリニティは、4分の1の学費で年4、5人の給費生入学を認めていた。カレッジはもっと違う方法で変革していった。祈りへの参加は未だに強制的だったが、例えば祈祷会欠席の罰は次第に緩和されていき、夜間外出禁止令もこれに追従した。カレッジの本部は有力者の息子たちが学業不振でも大目に見る覚悟をしていたが、時間割は未だに全員1日7時間で、さらに追加の3時間講習が数多く組まれた。講義は「内々に」("in house") 行われたが、扱う科目は次第に増え、以前の学生たちが受講していた、より古典的な科目に加えて、「実験的哲学」(英: "experimental philosophy")の講義などが組まれるようになった。また、カレッジは、オックスフォードで最も速く、学部生向けにカレッジの図書館を開設した。
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