ハレー彗星回帰前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 10:16 UTC 版)
「ミザールテック」の記事における「ハレー彗星回帰前後」の解説
ハレー彗星回帰が目前に迫った1985年、世界的な需要旺盛を背景に、国内の天体望遠鏡生産額は史上最高の約245億円に達していた。この波に乗って各社が新製品の開発を急ぐ中、日野金属もほぼ社運を賭ける形で赤道儀自動導入システムの新規開発に踏み切った。独自に高分解能の光学式エンコーダを開発したうえ、独自の演算アルゴリズムも構築。完成したシステムは「革命」の意を込めてRVと命名され、「星の手帖」誌で「非常に斬新」と評価されたマウントの新デザインやソリッド式の採用、競合機にあたるビクセン「マイコンスカイセンサー」よりも大幅に薄型でありながら記憶天体数が多いコントローラーなど、性能・機能面でもその名称に相応しい製品となり、「月刊天文ガイド」も「実用的」と評したほか、望遠鏡販売店も「本格的コンピューターマウント」や「無限の可能性を秘めた」などと銘打った。 しかしこれと同時に、既に巨大なシステムが完成されていたARシリーズは生産終了となり、その上RVシステムのアドバンテージである導入装置にはARシステムとの互換性が全くなかったため、RVへの移行は結果的に、それまでの顧客を事実上切り捨てることになってしまった。さらに、天体をコントローラーにインプットする作業の遅れのため発売が大幅にずれ込んだうえ、巨額の投資を行って高性能を実現したが故の11万8千円(コントローラーのみ)という高価格が影響し、事実上、より安価なマイコンスカイセンサーの後塵を拝する結果に終わった。 そのうえ、天体望遠鏡業界全体にも逆風が吹き荒れた。1985年のプラザ合意を受けて円高誘導が開始したことに伴い、海外製品と比較したときの価格競争力が低下。OEM供給などを通じて各社が行ってきた海外輸出事業が大打撃を被ったうえ、海外製品の国内における価格は急落し、競争が激化した。それに加え、ハレー彗星回帰後の望遠鏡市場は、反動的に猛烈な勢いで縮小を開始。1985年には業界全体で約250億円あった生産高が、翌1986年には200億円を割り込み、さらに1988年には火星の大接近があったにもかかわらず100億円の大台割れ寸前となった。1986年からの3年間で、生産量が実に半減したのである(ハレー・ショック)。また国内メーカーは、ハレー彗星回帰に伴う大量需要への対応で既に疲弊しており、特にマイコン開発で経営に余裕が少なかった日野金属は、主要販路であった老舗眼鏡チェーンが新興に押されて事業縮小を進めたことも災いし、非常に厳しい舵取りを迫られる事態に陥った。
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