ハレ大学の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/11 07:13 UTC 版)
「クリスティアン・トマジウス」の記事における「ハレ大学の設立」の解説
1690年、敵を作り過ぎてライプツィヒ大学にいられなくなったトマジウスは、田舎町ハレに移った。ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(後のプロイセン王フリードリヒ1世)は、1694年、トマジウスに対してハレに大学を設立するよう命じた。トマジウスは、単身ハレに赴き、町内の民家や公会堂で講義を行った。このとき、講義会場の確保に当たって地元住民といざこざが生じたため、トマジウスが選帝侯に直訴したところ、選帝侯は、トマジウスと地元住民との両方を考慮して、折衷的な解決を提示した。 ハレ大学は、一方では当時のスコラ哲学や正統主義に対する改革的な立場から出発したが、他方ではブランデンブルク=プロイセン国家に思想的な基盤を提供するという役割を担った。このことは、1713年にプロイセン王フリードリヒ1世が死去し、新たにフリードリヒ・ヴィルヘルム1世が即位すると、創設者トマジウスにとって予想外に不利な方向へと展開した。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は父親の宮廷趣味を排除し、プロイセンを軍事国家に改造した。このような改革の中に、トマジウスの宮廷哲学が入り込む余地はなかった。さらに、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、軍事政策と調和的な倹約を重んじる敬虔主義を保護したため、ハレ大学はついに敬虔主義の本拠地となったのである。
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