ハカーマニシュ朝に対する反乱
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「ネブカドネザル4世」の記事における「ハカーマニシュ朝に対する反乱」の解説
前522年12月にネブカドネザル3世が敗れた後、ダーラヤワウ1世はしばらくバビロンに滞在し統治を安定させた。そして少なくとも12月22日以降バビロンの王として認められ、メディアとペルシアに出発する前521年7月までバビロンに残った。ダーラヤワウ1世が去って僅か2ヶ月後、ネブカドネザル3世の敗北から1年も経たない前521年8月25日に、彼が不在のバビロンで再び彼に対する反乱が発生した。この反乱の指導者がアラハであった。彼はハルディタ(Haldita)という人物の息子であり、彼自身もバビロニアの出身ではなくウラルトゥ(アルメニア(英語版))の人であった。彼の父の名前ハルディタは古代ウラルトゥ王国の主神の1柱、ハルディ神に関係するものであった。ハカーマニシュ朝の記録ではアラハはドゥバーラ(Dubala)という地方(ダフユ)から来たアルミニヤ(アルメニア)人であると説明されている。 以前のネブカドネザル3世のようにアラハもナボニドゥスの息子であると主張し、同じようにネブカドネザルという名前を名乗った。ネブカドネザル4世は自身のハカーマニシュ朝に対する反乱をネブカドネザル3世の反乱と連結させるべく前任者と同じ王名を採用し、自分のアルメニアの出自を重要視しなかった。文書においては彼が継承した年ではなく、ネブカドネザル3世の即位年が用いられ、ネブカドネザル4世の反乱が以前のバビロニアの反乱の継続であることが伝えられた。これはバビロニアの神官たちによって図られたものであるかもしれず、その意図はネブカドネザル4世とネブカドネザル3世を同一人物として描き出すことであったかもしれない。さもなければ神官たちは1年足らず前に誤って僭称者を支持したと非難された可能性がある。2人のネブカドネザルの治世を統合することはまた、連続する2つの年が両方とも「ネブカドネザルが即位した年」と呼ばれる状況を回避するという実用的な解決策であると考えられていたかもしれない。 ダーラヤワウ1世のベヒストゥン碑文によれば、バビロニア人は速やかにネブカドネザル4世を支持した。ネブカドネザル4世の治世に関係する楔形文字粘土板文書はほとんどがバビロン市自体から見つかっており、ダーラヤワウ1世の支配を認めていたシッパルのような他のいくつかのメソポタミアの都市からも同時代の粘土板文書が見つかっている。アメリカの歴史学者、アルバート・T・オルムステッド(英語版)は1938年にネブカドネザル4世の治世はバビロン市に限定されたものであったかもしれないという見解を出した。同時代の記録はしかし、ネブカドネザル4世の反乱はバビロンへと広がる前にウルで始まったと記録しており、また彼の治世の日付のある粘土板文書もボルシッパとウルクで発見された。彼がバビロンの宗教当局にアピールするための努力として、ウルクとラルサの都市神の神像を保護するべくバビロンに集めることに成功したことから、他のメソポタミアの諸都市はある程度彼の権威を認めたように思われる。ネブカドネザル4世がバビロニア中部および南部を支配したという見解はもっともらしいことと考えられる。 ネブカドネザル4世の反乱はダーラヤワウ1世の弓持ち、ウィンダファルナフ(英語版)(インタプレネス)によって前521年11月27日に破られた。ネブカドネザル4世が支配した領域がネブカドネザル3世のそれと比べて小さいことが、ダーラヤワウ1世が自らこれを討伐せず将軍を派遣すれば十分であると考えた理由であろう。ウィンダファルナフによる占領の直後、ネブカドネザル4世はダーラヤワウ1世の命令により殺害された。ネブカドネザル4世が磔にされた、あるいは串刺しにされたというそれぞれ矛盾する記録がある。ネブカドネザル4世を支持したバビロニアの貴族たちは彼と共に処刑された。ペルシアの記録によればその人数は2,497人に上った。
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