ネブカドネザルの治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 19:36 UTC 版)
「ネルガル・シャレゼル」の記事における「ネブカドネザルの治世」の解説
新バビロニア帝国は、2人目の王ネブカドネザル2世の治世中(紀元前605~紀元前562年 )に全盛期を迎えた。その父ナボポラッサル(紀元前626年から605年)が滅ぼした新アッシリア帝国に属していた領土を併合し、ネブカドネザルの治世において、帝国は諸々の領土と軍隊を統合して覇権を確立した。ネブカドネザルはその治世中、バビロニア全土において、大規模な建築プロジェクトに多くの時間と資源を投入したが、とりわけ首都バビロンでそれは顕著だった。莫大な支出の負担が国庫にのしかかるにつれて、それと引き換えに地元の商人たちは裕福になっていき、その結果、政治問題により大きな影響力を持つようになっていった。 ネルガル・シャレゼル自身の碑文によると、彼はベル・シュム・イシュクン(êl-šum-iškun)という名の男の息子であった。これはおそらくナブ・エピル・ラア(Nabû-ēpir-la'î)の息子であるベル・シュム・イシュクンと同じ人物である。彼の収入は、ネブカドネザルと王の娘の一人であるカシュシャヤの収入と共に、バビロニアの経済文書に記載されている。帝国の様々な役人を記録した別の王室文書においても、ネグリッサル(ネルガルシャレゼル)とベル・シュム・イシュクンの名前が記載されている。その文書において、ネルガル・シャレゼルはシンマジル(Simmagir:シンマジル州を統治する高官)の役人として記録され、ベル・シュム・イシュクンはPuqudu州で生まれたと記録されている。ネルガル・シャレゼルとその父親のいずれも、Puqudu族(ベル・シュム・イシュクンが生まれた州と同じ名前)のアラム人の一族の出身であった可能性がある。 ネブカドネザルの治世中、ネルガル・シャレゼルは活発な実業を行い、土地も所有していた。彼はシッパルにおいて、ナブー・アッヘ・イッディナ(Nabu-ahhe-iddina)という名前の破産した男性から不動産を、イッディナ・マルドゥク(Iddina-Marduk)という名前の裕福な銀行家から不動産を購入したことが記録されている。ネルガル・シャレゼルはシッパルのほかに、ウルクにも土地を所有していた。シッパルと、紀元前565~564年にオピスにいたことが記録されていることから、ネブカドネザルが行ったメディアの城壁の建設に関わっていた可能性がある。この城壁は、バビロンを北方の攻撃から守ることを目的としていた。裕福な地主であることに加えて、ネルガル・シャレゼルはシンマジル(前出、同名の州を統治する高官)でもあり、ネブカドネザルの主要な役人の一人でもあった。 ネブカドネザルの軍事作戦中、ネルガル・シャレゼルは「ラブ・マグ(rab māg)」という地位の将校を務めた。彼は、紀元前597年にネブカドネザルがエルサレムを包囲した際の出来事を伝える聖書の文書に記されている「ネルガル・サル・エツェル」(エレミヤ39:13)と同一人物である可能性がある。
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