王への即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 19:36 UTC 版)
「ネルガル・シャレゼル」の記事における「王への即位」の解説
ネブカドネザルの娘の一人との結婚をにより、ネルガル・シャレゼルの影響力はさらに高まった。1974年、歴史家のデイビッド・B・ワイスバーグはこの娘はカシュシャヤ(Kashshaya)であると提案した。なぜなら彼女の名前がネブカドネザル、ネルガル・シャレゼル、ベル・シュム・イシュクンの名前と共に経済文書に記載されていたからである。ネブカドネザルの他の娘の一人ではなくカシュシャヤがネルガル・シャレゼルの妻であったという具体的な証拠はないが、ドナルド・ワイズマンやヨナ・レンダリングなど後の歴史家は、ネルガル・シャレゼルがカシュシャヤと結婚したという仮定を受け入れた。 後のヘレニズム時代のバビロニアの作家で天文学者のベロッソスによると、ナブコドノソロス(ネブカドネザル)は、43年の治世の後に病気で亡くなり、息子のエウリマラドコス(アメル・マルドゥク)が跡を継いだが、彼は「気まぐれに支配し、法律を無視した」。2年間の統治の後、ネリグラッサロス(ネルガル・シャレゼル)はアメル・マルドゥクに対して陰謀を企て、彼を殺して退位させた。ベロッソスの記述を信じるなら、ネルガル・シャレゼルが首謀者だったことになる。もっとも、アメル・マルドゥクとネルガル・シャレゼルの闘争は、一般的な他の形態の対立ではなく、家族間の不和であった可能性もある。 ネルガル・シャレゼルとカシュシャヤ(またはネブカドネザルの娘のもう一人)との結婚は、おそらく王位を奪うことを可能にした。ネルガル・シャレゼルが王になる可能性を大幅に増したかもしれない要因は、ネブカドネザルの他の子供たちに対するカシュシャヤの関係である。カシュシャヤは、ネブカドネザルのすべての子供たちの中で最年長だった可能性がある。彼の息子の多くはネブカドネザルの治世第39~41年の史料に登場する一方で、彼女はそれよりもかなり早い時期(治世第5年)に活動していたことがわかっているからである。この遅い時期にのみ言及された息子たちは、たまたまその時期に記述されただけという可能性もあるが、カシュシャヤとの時期の大幅なずれは、これらの息子が再婚により生まれたことを示しているとも解釈できる。したがって、王位簒奪は、王室のより古く裕福で影響力のある一族(ネブカドネザルの娘たち、とりわけカシュシャヤに代表される)と、歴史が浅く正統性もあるが、もっと若い一族(ネブカドネザルの息子、アメル・マルドゥクなどに代表される)との間の確執の結果であった可能性がある。カシュシャヤは、ネルガル・シャレゼルのように、父親の治世中にウルクで大規模に土地を所有していたことが記録されている。
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