王の随行医
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 06:26 UTC 版)
「ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセ」の記事における「王の随行医」の解説
アルトナでの約10年の間、ストルーエンセはコペンハーゲン宮廷から疎外された貴族たちと接触を持っていた。その中には、エネヴォルト・ブラント(デンマーク語版)とシャック・カール・ランツァウ(デンマーク語版)伯爵もおり、ランツァウ伯は啓蒙主義信奉者の集まりのリーダーで、自らをストルーエンセの後見人とみなしていた。彼らはストルーエンセをクリスチャン7世の随行医の地位に押し込むことに成功し、そしてストルーエンセが彼らを再び王のそばに近づけてくれるパイプとなることを期待した。 1767年の6月から7月、王は夏をシュレースヴィヒ=ホルシュタインで過ごし、そこに宮廷も宰相たちも随行した。ストルーエンセは機転の利く医師で、王がこの地を訪れている間に王の健康をいくらか回復させることに成功し、その歓心を獲得した。1768年4月5日、随行医として留任され、1768年5月6日から1769年1月12日までのパリ、ロンドン、ハノーファーへの王の外遊に随行した。アルトナを発って1週間もたたない1768年5月12日、彼は国務顧問官(etatsråd)に任命された。 9ヶ月の外遊の間に、彼は王と親密になった。王の大臣ベルンストルフと財務大臣H. C. シンメルマンはストルーエンセが王によい影響を及ぼしていることをみて、コペンハーゲンにもどった1769年に、ストルーエンセの侍医就任に動いた。
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