ノーフォークでの仕事
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「トマス・クック (初代レスター伯爵、1754-1842)」の記事における「ノーフォークでの仕事」の解説
クックは議員を務める合間に、妻と共に1776年4月に荘園を所有するようになって以来の維持と改良を続けていた。その中心となるのはホウカムホールであり、クックの大叔父が建設した「芸術に対する神殿」だった。クックは古典的な建築を同じように理解はできないと認識し、建物はほとんどそのままに、公園や庭園の改良に注力した。敷地は1720年代と1730年代にレイアウトが作られ、直ぐにオールドファッションと見なされるようなデザインとなった。クックは 22,900 m3 (36,000立方ヤード) の土を動かして湖を大きく拡張させ、1781年からが庭師のジョン・サンディズを採用した。サンディズは、イースタン・ロッジの近くの 88,000 m2 (22エーカー) 、湖の近くの別の 40,000 m2 (10エーカー)、沼の傍の16,000 m2 (4エーカー) の土地に7千本以上の樹木を植えて、幾つか大きな林を造った。1784年、さらに森林地の拡張が行われ、160,000 m2 (40エーカー) の地に11,000本の木を植え、1785年から1789年の間にはさらに 716,000 m2 (179エーカー) の地に396,750本の木が植えられた。サンディズは1805年に引退し、その1年後にジェイムズ・ルーズが引き継いだが、植林についてはサンディズがクックに忠告を続けた。図書室も拡張された。これは1813年から1831年まで、クックのための『マインツ詩編』などの書籍を購入したウィリアム・ロスコー (1753-1831) の働きによっていた。 クックは荘園自体も拡張し、ホールの周りの農園はそのリースが終わったときに取り込んで、1800年までに総面積は 14 km2 (3,500エーカー) を広げた。1799年から1805年までサミュエル・ワイアット (1737-1807) (英語版) も雇用され、拡張された敷地の入口に新しいロッジを建設し、1806年までには新しいキッチン・ガーデンも作った。その広さは 24,000 m2 (6エーカー) あった。湖をさらに拡張するためにハンフリー・レプトンが雇われ、ボート小屋や釣り小屋の建設を提案し、さらに「こぢんまりした藁ぶきコテージ」まで鎖で曳く渡し船も提案した。この提案が承認されたのか、証拠は残っていない。工事の大半は1810年までに終わり、その後のクックの注意は狩猟に向けられた。この荘園は明らかに狩猟を心に入れて設計されており、狩猟の本では1,300ないし2,550羽の猟鳥が殺されたとしている。1822年、クックの娘のエリザベスが、1日に800羽の鳥が撃たれたと記録している。 クックの妻であるジェイン・ダットンは1777年に最初の子供であるジェインという娘を出産した。その後にやはり娘のアン・マーガレット (1779-1843) (英語版) が1779年、同じく娘のエリザベスが1795年に続いた。娘のジェインは1796年6月21日にアンドーバー子爵チャールズ・ネビソン・ハワードと結婚したが、ハワードは1800年1月11日にホウカムの敷地内で銃の事故で死んだ。妻のジェインは1800年に死んだ。娘のジェインは1806年にヘンリー・ディグビー (1770-1842) (英語版) と再婚し、11人の子供が生まれた。
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